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[ 309] 「空白の二十年」を埋める営み(現代将棋を学ぶ) - My Life Between Silicon Valley and Japan
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20080208/p1

先週金曜日に親知らず(最後の一本)を抜いた。抜いたあと数日はリラックスして過ごせ、一週間はアルコール禁止とのことで、この一週間で何かまとまったことをやってみようと思った。じつは齋藤孝さんとの対談で、勉強法の話になったとき、「ある時期はこれと決めて、たった一つのことだけを朝から晩まで徹底的にやる」という方法を、齋藤さんは実践されてきたのだ、と教わった。
僕はあんまりそういう勉強法を意識したことはなかったので、よし、この「親知らず」抜き後の一週間は、仕事も完全に休みにして、徹底的に将棋の勉強をしようと思い立った。僕の場合、将棋の勉強と言っても、指すこと(強くなること)には興味がないので、現代将棋を観るため、味わうための勉強である。
「趣味は将棋鑑賞」などと公言していながら、二十歳のときから四十歳までの二十年間(1980年代、90年代)は、自らのサバイバルに没頭し、好きな将棋や、その他の趣味と呼べるようなものはすべて封印したため、その間の将棋の進化についての知識が明らかに不足している。これを一気に埋められないかと、この一週間は、「将棋世界」バックナンバー、棋書、数々の棋譜とともに、将棋盤の前にずっと坐っていた。
たしかに齋藤さんの言うとおり、たった一つのことだけを徹底的にやると、一週間でかなりのことができるものだ。そう感じた。
まず、「将棋世界」1997年7月号でスタートした羽生善治の連載「変わりゆく現代将棋」を読みながら並べていった。この連載は本になっていないのだが、今からでも遅くない、絶対に本にしたほうがいいと思う。
連載当時から「将棋に対するとてつもない思考」が書かれていると、気にはなっていたのだが(いつか読もうと思ってちゃんと読まずにいた)、今回きちんと読んでみて、やっぱり凄かった。
(1)と(2)はどちらが良いかはっきりとした結論は出ないが、(1)の場合は5筋交換の急戦と矢倉中飛車、(2)の場合は陽動振り飛車と右四間飛車に警戒を必要とするだろう。ここからは個人の好みとして選択して頂ければ幸いだ。
じつは僕はこの連載をぜんぶ読み、思わず笑い出してしまった。何かを読み終えて笑い出す、というのは、僕の場合、最大限の賛辞の現れだ。「ここまでやるかあ」という敬意を伴う笑いである。
これだけのシンプルな結論を語るために、どれだけの言葉を尽くすべきかという一点に、羽生は「現代将棋とは何か」の真髄の表現を試みたのである。だからタイトルが「変わりゆく現代将棋」なのだ。
羽生善治という人物は、若き日から自分が「将棋界の顔」であることを意識して、柔和で朗らかな明るいキャラクターを演じているが、内面はきわめて激しく、これまでに彼がやってきたことといえば、将棋の世界に「革命」を起こすことであった。その革命の成果が「現代将棋」なのである。
にあると述べているが、羽生はこの「変わりゆく現代将棋」という作品で、それを序盤も序盤、相矢倉戦の第三手目まで遡り、あまりにも始まったばかりの茫漠とした局面で、どの手を先に指すべきか、つまりどの手を「あとまわし」にするべきかを、ひたすら考え続けるのである。
月日が流れるのは早いもので、「羽生の頭脳」第一巻を出版してから五年の歳月が経過した。この間、現代将棋は緩やかながらも着実に、そして、より複雑に変化をした。(中略)
将棋は難しい。序盤に限定しても恐ろしく奥が深い。どんなに体系化されたとしても底が見えるとは思えないが、それでも少しでも進歩しようとすることが棋士の務めであると思う。
これから書いていく事は、そんな共通した想いを持っている棋士たちの(もちろんアマチュアの人も含んでいる)結晶なのだ。
そうか、1997年の「変わりゆく現代将棋」(第一回)の5年前に全十巻の「羽生の頭脳」が書き始められたのだよな、と思い出した。羽生は 1970年生まれであるから「羽生の頭脳」は20代前半の作品、「変わりゆく現代将棋」は20代後半の作品である。そして「羽生の頭脳」と「変わりゆく現代将棋」の間に、羽生は名人を米長から奪い、前人未到の七冠王になるのである。まさしく早熟の天才、将棋界の巨人と言っていい。羽生は、この間に、名実共に将棋界のペースセッターとなり、羽生の思想が「現代将棋」のあり方を、強く規定するようになる。そしていま、羽生の1997年の宣言文の中に出てくる「そんな共通した想いを持っている棋士たち」だけが、将棋界のトーナメント・プロとしてサバイバルできているのである。
ならば、二十年の空白を埋める勉強の次は「羽生の頭脳」にいくしかないのだが、この全十巻は、ほぼすべての戦型を網羅しており、全部読んでいけば、必ず道に迷いそうなので、「変わりゆく現代将棋」で勉強した相矢倉に絞って、読むことにした。ちなみに、第五巻と第六巻の二冊が、相矢倉に費やされている。
そして発見した。「羽生の頭脳」第五巻冒頭の「第1章 超急戦・序盤の常識」。この章のテーマだけを徹底的に深く思考したのが、「変わりゆく現代将棋」という作品なのだ、ということを。まさに、処女作にすべては表れる、そのものである。
そして第五巻、第六巻の大部の内容の大半は、二つの戦法だけに絞って書かれている。▲3七銀戦法と森下システムである。第五巻は1993年1月刊、第六巻は1993年4月刊。つまり、1993年当時、つまり今から15年前の時点で、矢倉戦の進化は、この二つの戦法に収斂していたということになる。二つの戦法共に、僕が将棋に熱中していた70年代の将棋と違って、飛車先の歩を突かない矢倉だ。飛車先不突き矢倉は、1980年代前半に指し始められたものなのである。
のルーツだと述べている。なるほどこれで、いろいろなことがつながり、少し「現代将棋の何たるか」がわかり始めた。
ところで「米長の将棋」という全六巻の名著がある。これは1980年から1981年にかけて出版されたものなので、「現代将棋」の前がどんなふうだったかを概観するには素晴らしい。ちょうどいい時期に書かれた本と言える。第三巻の一冊が矢倉戦法に費やされているが、この本には飛車先不突き矢倉の考え方は出てこない。僕にとっては、十代のときに熱中した中原・米長戦をはじめ、この本に載っている将棋を並べていると、じつに懐かしい思いがこみあげてくる。
ちなみに米長邦雄(1943年生まれ)という棋士は、将棋における古い価値観を体現する存在とも言える。1980年代後半、現代将棋の萌芽期に米長は突然、勝てなくなる。タイトルを失い、常連だったタイトル戦への出場もままならなくなった。当時を振り返って米長はこう書いている。この文章は古い価値観がよくあらわれている。
その人の持つ人生観、人間の大きさ、勝負哲学、人生哲学のほうがはるかに大きな比重を占めると考えていた。事実、序盤で少々不利になったところで、それがそのまま勝敗に直結することはなかった。したがって序盤での若干の優劣などは一切関係なく、それよりも中盤から終盤にかけての粘り、あるいは精神的なもの、焦らない、くじけない、楽観をしないという、心技体の心の部分。あるいは形勢不利な局面であっても、そのままぽっきり折れることなく、粘り強く、容易に勝ちを相手に与えないプレッシャー。どうすれば逆転するかという勝負術。そのようなすべての総合力こそ最も大切なものであると考えていた。(「米長邦雄の本」p22)
「現代将棋」が覆したのは、この価値観であった。ベテラン、若手を問わず、米長のような価値観を持った棋士は、トーナメント・プロの世界からこの二十年で、羽生の宣言文に出てくる「そんな共通した想いを持っている棋士たち」によって、淘汰されてしまったのである。
さて、ざっと「現代将棋」の前を、矢倉に限って「米長の将棋」でおさらいしたあとは、90年代に矢倉研究といえば森下卓であったなあ、と思い出した。森下システムの森下である。森下の著作を書架から引っ張り出した。
1999年に出版された「現代矢倉の思想」「現代矢倉の闘い」は、「羽生の頭脳」のあと、「変わりゆく現代将棋」が連載されているちょうど同じ時期に書かれたものなので、もう少し前の森下の著作はないかと探したら、1995年に刊行された「森下の矢倉」を発見した。いやいや、これが実に素晴らしい名著であった。
矢倉戦においては、飛先不突矢倉の登場が、旧矢倉と現代矢倉の分水嶺である。飛先不突矢倉の登場は昭和五十五年ごろだが、このあたりをさかいに矢倉戦は急激な変化を見せる。それからは日進月歩だ。本局に収めた五十局は、いずれも現代矢倉の一端を示したものだと自負している。
この本は、1984年から1995年までの主要な矢倉戦を自ら戦った将棋の中から選びぬいて、徹底的に解説したものだ。現代矢倉がいかに形成されたのか、ということを説き起こす意図を、明らかに持って書かれた名著である。「あとがき」を読んで驚いたのだが、勝又四段(当時)らの「絶大な協力」がなければ本書の発行はなかった、と森下は書いている。余談になるが、勝又は「現代の金子金五郎」にもっとも近い人物なのだと、この本を読んで改めて思った。
この本の主要な将棋を年代順に並べながら考えていき、なぜ「羽生の頭脳」矢倉編で、戦法が▲3七銀戦法と森下システムに収斂していったかが、よく理解できた。
さて、何日も矢倉ばっかり並べていたので、気分転換に、また俯瞰した視点を得るために、勝又の1995年の「消えた戦法の謎」(これも名著)と2007年の「最新戦法の話」を再読。大切な将棋は、将棋年鑑CD-ROMのデータベースから検索して再現した。実際にこれだけ勉強すると、同じ本を読んでも、入ってくるものがぜんぜん違う。なんとなく「空白の二十年」の全体像が把握できてきた。
そして、現代将棋興隆の分水嶺とも言うべき羽生・米長の名人戦(1994年)を、羽生による自戦記(「名人、羽生善治」「将棋世界」1994年8月臨時増刊号)を読みながら並べてみた。羽生・米長の名人戦は、僕が東京に住んでいた最後の年(1994年)の春の闘いだった。23歳の羽生は、初の名人戦を前に「普通の定跡形は指さない」と宣言し、第一局に先手番を握ると、いきなり5筋の位を取って中飛車を指した。名人戦という大舞台で、大先輩である米長を相手に「先手なのに飛車を振る」「矢倉を指さない」というのは、もうそれだけで無礼なことだと憤慨する古参棋士も多かったという。わずか十数年前まで、こんな非合理的な発想が将棋界にははびこっていたのであるが、羽生は「盤上の自由」を名人戦の棋譜で主張し、それもぶち壊したのである。
中央に位を取り、すべての金銀が連絡した美しい陣形ですね。羽生は5筋位取り中飛車の「戦法としての優秀性」を再認識させたのです。(中略)
「得意戦法は持たないほうがよい」「よい戦法ならば棋風にこだわらず使うべきだ」という「羽生哲学」は徐々に浸透し、トップ棋士の戦法に対する考え方が変わっていきます。
と述べ、名人戦初戦に羽生が米長にぶつけた5筋位取り中飛車という構想が、90年代後半から大流行するゴキゲン中飛車の発想につながっていったと分析している。
さて、合間の息抜きの時間には、昨年末に急逝した真部一男九段をしのんで「升田将棋の世界」や「将棋世界」バックナンバーの「将棋論考」から面白そうな将棋を選んで並べたり、昭和の升田大山の名勝負の金子金五郎による将棋解説に遊んだりした。
これだけやってやっと、2006年に刊行された村山慈明著「最新戦法必勝ガイド これが若手プロの常識だ」という本の意味が、おぼろげながら少しわかった気がした。
いやあ、やはり将棋は面白く、そしておそろしく深い。陳腐ではあるが、これが、勉強を終えての正直な感想である。
世の中の将棋ファンの人たちに、少しは追いつくことができたかなあ。いやむろんまだまだである。毎日コツコツとというのに加えて、またいつか一週間休みをとって、集中的に勉強しようと思う。
思いがけず、勉強法における齋藤孝方式をはじめて実践してみることになったが、これは確かに素晴らしい勉強法である。皆さんも是非お試しあれ。
羽生さんが安いものを頼むので困りました。例えば中華のメニューを渡されて、そこにはフカヒレ入りラーメン二千五百円とか、高くておいしそうな品がいっぱいあるわけです。なのに羽生さんに八百円ぐらいの五目そばとか言われるとちょっと。こっちは早くからフカヒレ入りラーメンに目を付けているのに。(「棋士の魂」p238)
私、棋士同士のつきあいで思ったことは、まあ十代で将棋界に入りますよね。で、基本的に転職することがないし人事異動がないでしょ。お互い死ぬまでつきあいが続くんですよ。十代から七十歳か八十歳まで、とすると五十年以上、ずっと続くんですよ。そういう世界だから一般社会のつきあい方と、ちょっと考え方を変えたほうがいいと思うんですよ。(「棋士の魂」p24)
ぼくは人生の選択やら、仕事のあり方には人並以上の大胆さを示してきたが、人間的無茶を通したかというと、そうではない。かなり他人に気を遣うし、先を譲ることもある。(中略) 混乱と変化の時代の中で、見つめることと感じることで「時代のかたりべ」をつづけてきたが、その中で、溺れもせず、狂いもせず、勘違いもせず、よく生きたと自分を褒める。それはきっと、仕事を推進力とした「生きっぱなし」と、一人の人間としての恐ろしいほどの制御力のせいで、ここまで来られたと思う。(「生きっぱなしの記」p213)
ぼくは人に恵まれた。それもお願いしたり、助けを求めたりして出会った人ではなく、相手の人がじっと日常のぼくを見ていて、向こうから声を掛けてくれて始まった関係である。(中略) ぼくは自分に与えられた仕事がつまらないと認めるのが厭なので、つまらないと思える仕事ほど一生懸命やるところがあった。(中略) すると、その無駄な抵抗ぶりと期待以上の成果を見ていてくれる人がいた。常にそうだった。(「生きっぱなしの記」p185-6)
昭和五十四(1979)年からスポーツニッポン紙上に毎日掲載する「甲子園の詩」が始まり、それは世紀を跨いで、今年も二十四回目の夏を迎えることになっている。七時半起床で、八時半試合開始、ほぼ一日四試合、十四日間で四十八試合、全部見る。全部見ないと、感動のまばたきの間で見逃すことがある。思えば、とんでもない仕事を引き受け、つづけているものである。(「なぜか売れなかったが愛しい歌」p87)
売れないけれど、いいねとか、凄いねとか、面白いねとか、新しいねとかいわれる作品は書けるはずで、そっちのタイプでありたいと思いつづけ、それがぼく流の意欲であった。売れなくてもいいと、思っているわけでは決してない。売るために志を変えないだけのことで、これが売れたら最高なんだがな、と常に思っている。それは無名の時から、三十五年過ぎた今でも、少しも変わっていない。(「なぜか売れなかったが愛しい歌」p34)
ぼくの青年期までは、恋愛は免許制であった。無免許で恋愛してはいけなかった。誰に言われたことでもなく、どこかでそのように自覚していた。免許とは何かというと、教養講座としての文学を読むことか、文学を読まない人は、人を思いやり、自分を制御することを知る人間講座の実地を学ぶか、どちらかだった。(「歌謡曲の時代」p291-2)
ぼくは、夏の高校野球を昭和五十四(1979)年から全試合見、一篇の感動詩を翌朝のスポーツ紙に掲載する仕事をやっている。一篇だから一試合見ればよさそうなものだが、そうはいかない。感動はあるようでない。うまい具合に一試合の中にセットされているものではないのである。正直いって、四試合でも純感動は難しく、準感動に熱を加えて書くことがないでもない。だから全部見る。全球見る。(「歌謡曲の時代」p135)
阿久悠のことを何人かが語っている記事の中で、多くは阿久悠は怪物でスーパーマンでといっている中で、彼(森田公一)だけは、「信じられないくらい傷つきやすい人です」といっていて驚いたことがある。これが地味で深いつきあいということであろうかと思っている。(「歌謡曲の時代」p99)
十八歳の少女に見える透明な声の演歌歌手(石川さゆり)に似合う歌は何かと、ぼくと三木たかしは、シングル二曲空振り、三曲目「花供養」も確信が持てずに目が回るほどに転がり、一曲(「津軽海峡・冬景色」)を選び出すために十二曲も作ったのである。(「歌謡曲の時代」p77)
ぼくは、時代を代表する歌手は、常に扉を開いて行く責任があると感じていたので、前作と違うものを探して懸命に書いた。それが「難しい」という評判に繋がる。ぼくはぼくなりに全力を尽くした思いが強いので、森進一用の作品は好きである。(「歌謡曲の時代」p71)
藤圭子という歌手は単に宇多田ヒカルの母という存在を越えて、なかなか凄かったのだよ、時代に食い込んだり、時代を引き裂いたりする力は、母の方にあったかもしれないんだよ、と言いたいのである。(「歌謡曲の時代」p58)
南方熊楠は大学予備門中退である。宮本常一は師範学校卒。一応大学は出ていても独学者の歩みをつづけた人には柳田国男、折口信夫、白川静の諸氏がいる。これらの人々の特徴は「他人の真似をするのが大嫌い」だという点にある。世間のありふれた賞讃には目もくれず、光栄ある孤立の道を選ぶことをためらわなかった。(日経新聞5/31/08)
今はみんなが才能のある人を探してるんだから。才能が埋もれてる、なんてことはない。動かないで何かをなした人間はいません。(「漫画家アシスタント物語」p297)
小説家にとって最も大切なのは、ともかく家から離れないことだ。家にさえいれば、取り敢えず書くための最低条件が整ったことになる。それにはガーデニングの趣味が最適だ。なぜなら、うっかり家を明けようものなら、それまでのせっかくの努力がむだになってしまうからだ。(「安曇野の白い庭」p13)

 

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