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知らとは?/ ノーローン

[ 549] あなたの知らない照明術 : akiyan.com
[引用サイト]  http://www.akiyan.com/blog/archives/2007/01/post_75.html

私はとくに何も考えずに読んだのですが、読後いてもたってもいられず24時間以内に間接照明器具を3つ揃え、照明リフォームを完了させていました。そしてリフォームの結果に大満足です。費用は約5000円。安いです。照明リフォーム後の部屋を人に見せたところとても好評でした。
ちなみになぜリフォームしたくなったかというと、クリエイティブ脳(=リラックスした状態)になるためには間接照明の空間に身を置くのが有効だからです。直接照明のもとでは単純作業は効率が上がっても、アイデアを練ったりするのにはむいていないのだそうです。
さてこの本、照明術とうたいながら写真は表紙裏のたったの4枚。でもこれで十分。この4枚は本文を読み進めていくと何度も見直すことになるでしょう。それだけ沢山の「技」が詰まっています。
日本にやってきた欧米人に日本の印象を尋ねると、ほとんどが「人は優しいし食べ物は美味しいし、最高!でも、照明だけは我慢ができない」と口を揃えて答えます。
日本の多くの住宅にある直接照明は床を”直接”天井から照らす照明。いわゆる「シーリングライト」と呼ばれるものです。おしゃれなレストランやホテルで見られる間接照明は壁や天井に光を当てて、その反射で”間接的に”床を照らす照明です。つまり、床が明るいかどうかがこの言葉の基準なのです。(p25)
「間接照明?なんか、壁や天井に光を当てたりするアレだよね?」というのは間違ってはないが、床を意識するかどうかが正しい認識の分かれ目。
私たちは、ほとんどが前を向いて生活しています。床を幾ら明るくしても、目線の先は暗いまま。ほんとうはちっとも明るくないのです。ふだんの生活で下が明るくて助かるのは、読書や作業の時。そんなときでも床全体が明るい必要はなく、自分の周りと手元を明るくできれば十分なのです。(p26)
人間は、自分に光が当たると緊張する動物。このことは、舞台や映画館の客席が暗いことからもわかります。観客にステージやスクリーンをくつろいで観てもらうために、客席には光が当たらないようになっているのです。(p27)
映画館などで客席を暗くするのは「くつろいでもらうため」。間接照明を使えば自宅でも同じ効果が得られる。
直接照明の場合、いつも自分に光が当たるうえ、頭の上から光が降り注ぎます。高い位置にある光は、太陽で言うと昼間の太陽と同じ。これは、私たちを無意識に活動的なモードに切り替える光なのです。(p35)
ここ大事。これをおさえればあなたも立派なアンチ直接照明派。いや、直接照明も使いどころは沢山ありますよ。わかっててやってれば、の話ですが。
主人公の”電車男”→アニメやフィギュアをこよなく愛する、いわゆる”オタク”。平凡な彼の暮らしぶりを象徴するように、部屋の照明として、天井に丸いシーリングライトが一つの直接照明。
相手役の女性”エルメス”→寝室にもリビングにも、あるのは高価な照明器具。おもに間接照明でおしゃれにライトアップ。
ここまで気づかなくても、視聴者の印象に残るイメージは、電車男の部屋の場合、青白くのっぺりとした空間。ヒロインの女性の家はオレンジ色の光と影がリズミカルに織りなす豪華な空間。いわゆる庶民とセレブの違いが、青白い光とオレンジ色の光でしっかりと表現されているのです。(p32)
そのほかのキャラクターも、「いわゆる”ひきこもり”の男性」はPCモニタの明かりが青白く顔を照らしてひきこもり感を出したり、「病院で働く看護婦」は映り込む背景が全て青白く照らされていかにも職場を演出していたりと、照明がフル活用されています。
工事いらずで生活の中にカンタン間接照明試しに、スタンドの光を壁のコーナーに当ててみましょう。暗かったときよりも、壁がぐっと広がるような気がしませんか?また、天井に当てると、天井がぐっと持ち上がって高く見えます。(p35)
照明をちょっと変えるだけで、インテリアはもちろん、そこにいる人の気持ちまでがらりと変えてしまう、工事いらずの効果的なリフォームが”照明リフォーム”です。(p36)
照明リフォーム万歳!このあとにソファ周り、棚、植物、絵や壺のライトアップの具体的な説明がありますがここでは省略します。
「光の色」は大きく分けて2種類。1つは朝型や昼間の光の色で青白くさわやか、そして人を活動的にする。もう1つは夕焼けのオレンジ色で暖かみがあって、人に安らぎを与える。
「光の高さ」は3種類。高い位置は昼間の太陽、低い位置は夕日、中くらいの位置は空間を立体的に美しくする。
「光の当て方」は、直接か間接か。あるいは床が明るいのか明るくないのか。どこに(何に)光が当たっているのか。
日本家屋は塀が高いので、玉砂利は地面に落ちた光を拡散反射させて家の中に光をとりこみます。障子はくもりガラス効果で光を拡散し、金屏風は奥の部屋まで光を届ける役割をもっている、と。このあたりの話はすごく面白いです。
私が企業を訪問する際に、「この環境はあまり居心地がよくないぁ」とこっそり思う会社は、だいたい光のケアをしていません。こまめにランプ交換を行っていないために、廊下が妙に暗く感じられたり、オフィス全体のイメージも陰気です。こういった光環境の会社によい印象を持つことは、決してありません。
逆にいうと、どんなに古い建物でも、いつもフレッシュな光に溢れていれば、清潔感が広がり、活気を感じることができます。つまり、その会社がフレッシュな光環境であるかどうかは、働く人や訪問客に対する目のケアだけでなく、やる気や活気、会社のイメージまで左右してくるのです。(p176)
たしかに建物が新しくても蛍光灯がきれかけていたりすると、かなりみすぼらしく見えます。しかし古い建物でもちゃんと明るさを維持していれば大丈夫だというのはすごい。
よく「テレビを観るときには部屋を明るくしましょう」と言われます。映画館気分で部屋を真っ暗にして画面を見ることは、目にとってはNG!!
テレビの画面と周りの明るさに差があると、目が画面の明るさとその後ろの暗い壁の両方に対して調整をくりかえしてしまうので、眼精疲労の原因になってしまうのです。(p177)
映画館は視野全体がスクリーンなので周りの明るさを気にする必要はないと。でも部屋を暗くして観たい!という方は、まずは間接照明で雰囲気を作り、そしてテレビのうしろに灯りを設置して壁を照らして明度差を下げるとよいのだそうです。
ケースをのぞき込んで、他の肉と比較しながら好みの肉をピックアップ、買い物かごに放り込む──これは、明らかにNGです。デキる男は、商品をショーケースから遠ざけてチェックします。
この差は、光のマジックに惑わされるか否か。実は多くのスーパーの食品には、照明でおいしそうな”味つけ”がしてあるのです。(p202)
料理に大切なのは味。実は照明の光は味覚まで左右することが、大学の研究データでも明らかになっています。
光の色でおいしそうに見えるかどうかだけではなく、味覚の敏感さまで変わることは知りませんでした。驚きです。
いいレストランでは客席はオレンジ色の光を多用していてもキッチンからは青白い光がこぼれています。キッチンでは味覚を敏感にさせてきっちり調理しているのです。
多くの家の洗面台では、鏡の上に照明がついています。これが”モテない明かり”。この照明では、目や鼻の下、あごなどに影ができて正確に顔がチェックできません。男性ならヒゲと影をまちがえてきっちり剃れないことも。ヒゲのつもりが肌を削ってしまうのは、この照明のせいかもしれません。
女性でも、暗く見えるところにファンデーションを厚塗りしたり、メークのカラーをまちがえたりすることもあるのです。実際、外出先の鏡を見て自分のメークにビックリした経験はないかと女性に尋ねると、ほとんどの女性がそういう経験があると答えます。(p228)
洗面台が広ければ、スタンドを置いて下から光を。スペースがなければ、クリップライトを棚につけて横や下からの光をふやします。もとからある光が青白い蛍光灯なら、プラスする光は白熱電球や蛍光灯の電球色など暖かい色のものにしましょう。(p228)
多方向から光を当てて、ぬかりなく。ちなみに究極は楽屋の鏡だそうです。私も楽屋でメークをしたことがあるのですが、たしかに上横下すべてに照明がついていました。この光で顔の影を消して、きちんとメークできるのです。
出演者の顔の印象をよくするために、テレビ局でも照明はとても大切な役割を果たしています。スタジオでは、照明担当のスタッフが角度を工夫して綿密に照明の位置を決定。出演者を照らすライトのほとんどが、顔を斜め上から照らしています。真上からだと顔に影ができやすいので、斜め前から当てることで影をできにくくしているのです。
私が以前に司会をしていた競馬番組でも、このライトが活躍していました。ある日、番組のセットがチェンジしたときのこと。プロデューサーが新しくなったセットをモニターで確認しながら、首をひねり唸っていました。「なんで、こんなに違和感があるんだ・・・・・・。すごくマイナー感があるぞ・・・・・・」。そしておもむろに、「あれ!?キャスターライト(下から当てる小さなライトのこと)がないぞ!?急いで発注しろ!」と叫んだのです。
パッとできて、部屋も自分もきれいに見える。これに必要な物はスタンドと布。布をテーブルの上にすっぽりかぶせ、その下にスタンドを置いて点灯するだけ。とってもお手軽なんです。でも効果は絶大です。
部屋を暗くすると、そのテーブルから神秘的な光がこぼれ、異空間にいるような不思議な感覚。ほんのり下からこぼれる光は、そこにいる人の顔をきれいに見せてくれます。顔の下からの照明は、気になるエラやほお骨の影を消し、すっきり細面に演出。しかも目鼻立ちもくっきり見えます。光が強すぎると、顔に変な影ができてしまいますが、布を通すことで拡散した優しい光が肌にパウダー効果を加え、ほんのりと輝く美肌に見せてくれるのです。
超おすすめですのでぜひ手にとって読んでみてください。新書で行間も広めなのでさくっ読めるのにすごい説得力ですよ。
でも商社の人が来た時に言うのが、この会社綺麗なんだけど、なんか落ち着かないね。疲れるよ。明るすぎるんじゃない?悪いけどあんまりここに居たくないよ。って。
私の彼氏はアメリカ人なのですが、日本に住んで3年以上たちますが、蛍光灯の部屋だと病院みたいで落ち着かないと言います。コンビニとか明るすぎてあり得ないようです・・・。

 

[ 550] わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
[引用サイト]  http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/

何かを制限したり、強制したりするダイエットではない。「これを食べるな」「カロリーを抑えろ」といったマイナス思考的なダイエットではない。むしろ「これを食べて栄養を摂りましょう」というプラス思考ダイエット。だから、気軽に気長に続けられそう――とはいえ、ツッコミどころも多いので、割り引いて読むのが吉。
揚げ物を食べるときは抗酸化の成分(ビタミンC)を一緒に摂りなさいという。曰く、レモンをかける。付け合せのキャベツから食べる。ビールではなく、生搾りグレープフルーツサワーを頼む。こうした一工夫で、酸化した油の悪影響を少しでも中和するように気をつけよと。ほとんどオマジナイのような気がするが、やらないよりマシなんだろうね。
どうしても食べたいなら、オリーブオイルをかけろという。オリーブオイルという「良い油」で、加工食品に使われている「悪い油」を追い出せという。あるいは、タバスコをかけて体を温め、代謝を上げよという。「良い油で悪い油を追い出す」(原文ママ)とは何なのか理解できなかったが、やってみよう。
食べる前に野菜ジュースを1本飲むのが秘訣なんだって。野菜ジュースで血糖値の上昇がゆるやかになり、体脂肪の蓄積を抑えることにつながるそうな。さらに、具のメンマやホウレンソウを先に食べることで、糖の吸収がゆるやかになる。あるいは、ラーメンに酢をかけることを提案している…ってラーメンに酢!それよりも、野菜ジュースって…かなり糖分があったはずなんだが、スルーされちゃっている。
体に悪いものを食べたり、食べ過ぎたりしたら、翌日は体にいいものを摂り、量を控えめにする。カップ麺を食べた翌朝は、野菜ジュースだけにしておきなさい、というやつ。つまり、体内で「善悪の帳尻あわせ」をすることを心がけなさいという発想。
食べるときも重要。30−40代の男性なら、外食やコンビニ飯、飲み会は避けられない。ガマンしてストレスためるよりも、食べちゃえ。ただし、食べるときは代謝効率のいいものを選んだり、体脂肪の蓄積を抑えるようにしなさいという。
たくさんのノウハウが開陳されるのだが、その根っこにあるのは、不足がちな栄養素を積極的に摂り、代謝効率を上げて脂肪を燃やすメソッド。効果の信憑性はともかく、現実的かつ即実行可能なので、気軽に習慣化できる。
アメリカのドラマ「NUMB3RS」の話だけれど、実際の事件をベースにしている。科学捜査官ならぬ数学捜査官。そのエピソードを糸口にして、元ネタとなっている様々な数学概念を解説するのが本書。サスペンスのドキドキ感と数学のエウレカ!を楽しみながら読む。
まず、ロサンゼルスの連続殺人鬼。若い女を次々と強姦殺人した現場が、街路図に×印で記されている。捜査は行き詰っており、手がかりはない。次はどこで、誰なのか――?
この事件を解決する数学の発想がスゴい。わたしなら、「×群の真ん中あたり」しか思いつかないが、この天才数学者は試行錯誤の結果、次の数式を書く。
もちろんわたしにゃチンプンカンプンだった――が、本書ではその肝を解説してくれるので安心して(そしてわたしに訊かないように!)。
これは、連続殺人犯の自宅を絞り込むための式だそうな。犯人は尻尾をつかませないよう、ランダムなパターンを選んだつもりだったのだが、その「ランダムなパターン」に傾向があり、
を数式にしている。もちろん地形や移動手段や犯行状況による変動要素はあれど、本質的な「犯人はどうやって現場を選んでいるか」に迫っている。
そして、ずばり住居があるホットゾーンがあぶりだされる。おかげで捜査範囲は絞り込まれ、スリル満点の場面もいくつかあって、犯人は捕まり、事件は解決する――これが、「NUMB3RS:天才数学者の事件ファイル」の第一話なんだって。
ドラマの紹介と思いきや枕にすぎず、データマイニング、オペレーションズ・リサーチ、ベイズ確率、ゲーム理論、暗号、指紋とDNA鑑定の尤度など、「数学という武器」が縦横無尽に活躍している。ドラマとはいえ、ホントに「囚人のジレンマ」を使って数学による裏切りの説得をするトコなんて爆笑もの。理論的な下支えといった裏方的仕事ではなく、数学が直接現場に役立っているところがスゴい。
もちろん、数学を武器として扱うため(捜査に役立たせるため)には、地道な裏取り調査や正規化された膨大なデータが必要だ。しかし、そうしたデータの大海から結果を出すためには、数学的にアタマを使う必要がある。
つまり、重要な要素だけに集中して、他は無視すること。一見複雑な問題を、少数の主要変数に還元すること。変数の振る舞いから、問題の本質をつかまえ、表現すること。言うのはカンタンだが、やるのは難しい。パターン化って言い換えてもいいかもね。
わが息子は、いま九九で四苦八苦しているところ。高校ぐらいにきっと言い出すはず→「なんで役に立たない数学を勉強しなきゃならないの?」…そのときは、本書と、「生き抜くための数学入門」、さらに「その数学が戦略を決める」を渡すつもり。
臨場感たっぷりの破天荒さに、最初は小説だと思ってた。それっぽい表紙は映画化されたスチルなんだと信じ込んでた。
だいたい、赤道直下のコンゴ奥地に恐竜の生き残りを探しにいくなんてどうかしてる。しかも、そのために全財産を投げ打って追っかけるなんて、オツムがあったかいとしか言いようのない。
蚊、ノミ、ダニ、シラミ、ナンキンムシ、アブ、ブユ、ツェツェバエ――血と汗を吸い、皮膚の下にタマゴを生みつけようとするやつら。爪の間や性器に入り込もうとする線虫・回虫・寄生虫もあなどれない。そしてゴキブリ!ベッドマットを持ち上げたらゴキブリがざーっとあふれ出る場面は全身トリハダ立ちまくり。
マラリア、眠り病、梅毒、イチゴ腫、エイズ、エボラ出血熱、コレラ―― 描写のいちいちが克明で、読んでるこっちが痒くなる。風土病や感染症だけではない、人を襲うヒョウやワニ、ニシキヘビといった猛獣について、いちいち挿話とウンチクを並べ立てる。その恐怖におののきながら、いそいそと出かけるところは笑うところなのか?
その一方で、めずらしい鳥の姿を目にして乱舞したり、ゴリラのあかちゃんを糞尿まみで世話したり、さらには幻の怪獣、モケレ・ムベンベを必死になって捜し求める姿は、これっぽっちも滑稽ではない。読者はそこに、正真正銘の「愛」と「狂気」の目を見るだろう。後半、「旅行記」のタガが外れ壊れ始める著者が怖い。この地に白人が長いこといると、おかしくなるらしい。いつも飛び交っている怒鳴り合いの会話から解放され、真に孤独になれるのは、アフリカではこんな瞬間しかないのではないか――ふとそう思った。こうやって歩いているとき、真夜中にふと防水布の上で目覚めたとき…。アフリカで、自力だけに頼ろうとする人は危険だ。孤独は狂気に直行する。孤立した人間はいとも簡単に、さ迷う霊の餌食になってしまう。だから、友達どうしいつも一緒にいて、しゃべりつづけなければならない。 書き口で興味深かったのをひとつ。呪術師がしつこく警告していた精霊が、著者に語りかけるシーンがある。マラリア熱に浮かされた頭なので、どうせ夢なのだろうと疑ってかかるんだが、その融合の仕方が魔術的リアリズムまんま。境目が巧妙に隠されており、読者も一緒になってつきあうハメになる。しかも、夢オチにさせないように書いているので、どこからがホントで、どこからか夢なのか終わっても分からない。マジック・シュール・リアリズムといったところか。
著者のレドモンド・オハンロンは、筋金入りの探検家というべきだろう。イカダで太平洋を渡ったり、犬ぞりで極北を目指す冒険家というよりも、「○○が見たい、だから行く、どんなことをしてでも」というタイプ。
訳者あとがきによると、最初はボルネオ。幻となりかけているボルネオサイを見たい一心で、かつての首狩族の地「ボルネオの奥地へ」(めるくまーる、1990)乗りこむ。冒頭から、やめたほうが…と助言したくなる旅だそうな。
で、三番目がこの「コンゴ・ジャーニー」、上二つと比べるとはるかに危険な旅だという触れ込みだけれど、たしかに死んでもおかしくない。「安全な」場所で読んでいると、なんでわざわざそんなところへ好んでいくんだろう? という(彼にとっては)愚問がわきあがってくる。
ケタケタ笑って読んでもいいし、いくら深読みしても耐えられる、軽薄かつ堅牢なつくり。小説としてしっかりしていれば、その容器(うつわ)に何を入れても許される好例だね。
単なるファンタスティックに走り出さない。リアリズムからつかず離れず、一定の間隔をおいている。この距離感が絶妙なので、ナザレ人のイエスが蝿まみれになって死んでゆく様が異常なほど克明に見える。さらに、モスクワじゅうを大混乱に陥れる荒唐無稽さをたぐり寄せてゆくと、スターリン時代の恐怖がズルズル剥けだしてくる。
この「つながっている」感覚は、映画監督ミヒャエル・ハネケ(カフカの「城」 で有名)のコトバを思い出す。衝撃的な映像にマヒしている観客に、暴力をどう見せるかは問題ではない。問題は観客に、その暴力が自分とは無関係ではないことをいかに自覚させるかだ 1930年から、さらにソビエト連邦から遠く離れた「いまここ」へ、波状攻撃がしかけられる。次から次へと連鎖するグロテスクなユーモアに笑い転げているわたしにチャンネルが合わさる。天井から降ってくる紙幣を追いかけて、ひっこ抜かれた首を探しまわり、裸のオンナたちが大通りを逃げ惑うさまを笑いのめす。無関係どころか、当事者の気分だ!
そして、名無しの主役、「巨匠」は、当然ながら著者ブルガーコフと重なる。粛清の嵐が吹き荒れていた時代だ。悪魔のセリフ「そんなはずはない。原稿は燃えないものなのです」がナイフのように光って尖っている。不遇をかこったブルガーコフの強烈な意趣返しが効く効く。訳者が高尚な解説をぶっているが、すまんな、そんな崇高な深読みはワケ分からん。書いたものの出版が認められなかったとはいえ、ブルガーコフは小説家だ。だから、小説で復讐を果たしただけなんじゃぁないかと。
そうそう、みんなの大好きな裸エプロンのメイドも出てくるぞ。それだけではなく、全裸のメイドも豚に乗って飛び回るぞ。圧巻なのは全裸の魔女がモスクワの夜空を全力飛行するところ(裸女が多いが気にすんな)。非常に映像的で、疾走感覚あふれまくり、アドレナリンだかドーパミンを感じて、彼女と一緒にドッキドッキできる。ラストはずいぶん先なのに、もうカタルシスを覚える。
「ほぼ日の就職論」という触れ込みだが、就職活動している人にとどまらない。「はたらくこと」の根っこまで掘り下げて、「ほらっ」て見せてくれる。糸井重里がいうには、「はたらくこと」って、どういうことなのか。それについての自分なりの答えは「大切にしてきたもの」を考えることで、見えてくるのではないだろうか。 仮に、就職活動をうまくやるための「すぐ効く処方箋」のようなものを求めて読むと、完全に肩透かしを喰らう。いっぽうで、漫然と働いていながら「はたらくこと」について何らかのヒントが欲しかった人にとっては、読んでよかったな、と思える一冊になるだろう。
企業の人事担当や、キャリアマネジメントの研究者など、いわゆる「就職のプロ」の話から、漫画家(しりあがり寿)やミュージシャン(ピエール瀧)など就職していない人たちにとっての「はたらくこと」、さらには「矢沢永吉」の中の人まで出てくる。
読んでて嬉しいのは、「その場の空気感」みたいなものに触れられるところ。プロの編集のなせる業が、メリハリの利いた対話文をつくりあげている。話の息継ぎのようなちょっとした「間」が再現してあったり、どんな風な笑顔か分かるような(笑)が絶妙なタイミングで挿入してたり。
いっぽう型破りなのは、就職面接での「パターン」や「定石」なんてうっちゃってるところ。むしろそうしたハウツーを否定し、「何を大切に思ってる?」とか「それ、楽しい?」と問うてくる。ニコニコしながら訊いてくるので、こっちはタジタジと考え込む。
もちろん楽しいことばかりじゃないことなんて【お互い】分かってる。しんどいことだってある。仕事自体がイヤになるかもしれない。それでも、面白がれるところがないか、仕事の周りに楽しめる要素がないか、わたしの大切なものがないか、目を向けるようになる。じぶんにとっていちばん大切にしているものが、いまの仕事につながっていることを「幸せ」と呼ぶんやろね。
ハッとしたのはここ。しりあがり寿がキリンビールに勤めていた頃の話。面接官をやると決まったときに、人事部の人に相談したんです。人を選ぶということがよくわかってないんですけど、どうしたらいいんですかって。そしたら、その人は「あんまりいろんなことを気にしないで、自分がいっしょに働きたいと思う人を選んで」って言ってくれたんです そういや、ドラゴン桜外伝「エンゼルバンク」でも同じこといってたなぁ… 学生さんの就職論という体裁をとっているけど、すでに職(食)を得、キャリアを重ねている人には「はたらく論」あるいは「転職論」として有用だと思う。
おまけ。本書の延長上にできた企画が面白い。「社会人がえらぶ人気企業アンケート」というお題で、社会人として経験や知識を培ってきた今、あらためて就職できるとしたら、どんな会社で「はたらきたい」と思うか―― というアンケート。学生さんとはちょっと違う、でも妙に生々しい(あるいは、切実な)結果をご賞味あれ。
彼女によると、原子炉を中心とした「ゾーン」そのものが放射能を帯び、呪われた土地となっている。たとえば、45km離れたヴィルチャでは、ガイガーカウンターは109mRを示している。危険ではないらしいが、吸い込んだ放射塵は分からない。ホコリは地面に吸収され、土地そのものが汚染されているのだ。
彼女の旅行記の日本語訳は[チェルノブイリへのバイク旅]にある。文章よりも写真が豊富で、ある特定の廃屋や廃ビルの「写真集」ではないところがスゴい。
つまり、バイクに乗って延々と走っても走っても、遺棄された光景が続く。連綿とつながる写真『群』を見ていると、核戦争後の風景はきっとこんなんだろうな、と思えてくる、オオカミが支配する大地。
この地を、「自動車」で訪れた日本人がいる。中筋純といい、廃墟写真家としていくつかモノにしている。彼はクルマで行った。現地のガイドを雇い、装備をととのえ、「石棺」のかなり近いところまで迫っている。その写真集が「廃墟チェルノブイリ」。
人間が完全に排除され、22年ものあいだ風雨にさらされ続け、植物が支配する街。メーデー祭の直前に事故が起こり、一度も使われることのないまま朽ちていく観覧車やゴーカート。ハイクラスの生活が根底から覆り、破壊と混乱のまま捨てられていった建物群。
面白いな、と思ったのは、このサンクチュアリを目指す人が少なくないこと。しかし、不用意に訪れるのは死を意味する。エレナによると、この周囲は何十キロと、地図からは地名も道路も抹消されている。旅のドライバーがうっかり迷いこまないようにとの配慮らしい。
ゾーンは広範囲にわたっているため、完全に封鎖されているわけはなく、どこからでも入り込める。しかし、地図なしで汚染された区域をウロウロするのは自殺行為に等しい。
だから、ガイドが必要だ。「その場所」までの安全なルートとクルマ、それからガイガーカウンターを用意できる人物 ―― ここらでタルコフスキーの「ストーカー」を思い出すのだが、この映画は1979年につくられている。黙示録的という評価はむべなるかなー
ガイド付きにせよ、単独にせよ、目的地はゾーンの中心部、「石棺」だ。映画のように、その中で「あらゆる願いがかなう」わけがない――が、生きているうちにいける最後の場所となるに違いない。
「なりたいアタシ」や「ありたいジブン」は、普通、「夢」と呼ばれる。大きくなったら何になりたい? その子にとって大切なタマゴのようなものだ。みごと、そのタマゴを孵化させる人もいれば、割ってしまう人もいる。
本書の2つの人生が、それぞれ答えを示している。ひとりは、ポール・ゴーギャン。高給と妻子を投げ捨てて、絵を描き始める。もう一人は、その祖母フローラ・トリスタン。貴族生活から脱し、労働者や女性たちの権利確立のために奮闘する。
自分を生贄にして楽園を目指す。ゴーギャンは芸術の楽園、フローラは平等な社会を。もちろん周囲には認められず、極貧と冷遇を余儀なくされる。その孤軍奮闘ぶりと確信・妄執っぷりは、何かに取り憑かれているようだ。
さらに、それぞれの半生と照らし合わせると、文字通り「人が変わってしまった」ようだ。まさにキャラチェンジという言葉がぴったり。安定した生活から離れ、精力的に動き回る。いくつもの国や海を「横に」移動するだけでなく、ブルジョアや貴族社会から最底辺まで「縦に」堕ちていく。文明化社会から野蛮人の生活にダイブする。夫の奴隷から逃げ出す。キリスト教的禁忌を破り、桁外れのセックスライフを味わう。
この生き生きと「移動」する2つの人生が、わたしの推進力になる。躍動する人生が流体クラッチのように伝わって、わたしのハートをアンロックする。
しかし、2人の軌跡は決して交じり合うことはない。ゴーギャンと、その祖母というだけで、それぞれ違う人生を生きた。そこを強調したいのか、著者のバルガス=リョサは巧妙な構成をとっている。
つまりこうだ。奇数章ではフローラの社会活動を、偶数章ではゴーギャンの退廃的な生活を交互に描いている。それぞれ混じることも譲ることもせず、互いに独立したストーリーとして成り立っている。
しかも、それぞれの章で自分の人生を回顧するシーンを差し挟み、さながら四重奏のバウムクーヘンのような対位法を実現している。また、地の文と同じつながりで10年前の回想を混ぜ込んだり、内的独白と客観描写を平気で並列させているので、読む方はけっこう忙しい思いをするかも。
たしかに、35歳以降のゴーギャンを「芸術というデーモンに取り憑かれた生涯」と評するなら話は早いが、冒険をするか常識的に考えて? 失ったものがあまりに多すぎる。祖母のフローラだってそうだ。ペルーで何不自由ない生活を送れたのに、それを捨てるどころか真逆の、いや誰もやったことがない人生を歩み始める。
そして、病と貧困にあえぎ、「わたしがやってることなんて、何ひとつ意味なんてないのかもしれない」と夜ごと絶望に悶える。そのさまを見せ付けられると、軽々しく「好きを貫け」なんていえなくなる。
それでも、彼・彼女はそういう人生しか生きれなかったんだ、と納得する。モームの「月と六ペンス」で植えつけられた「なぜ?」が、憑き物が落ちたように分かる。ゴーギャンは、楽園を目指したんだ。たどり着くことはなかったけれど、求めていく過程を身もだえしながら生き抜いたんだ。
新聞やテレビでは、おどろおどろしい「モンスター」が解説されている。神聖なる教育現場に怒鳴り込み、執拗に要求をくり返し、教師をノイローゼに追いやる「モンスター」たち。
しかし、幸か不幸か、わたしの身の回りではぜんぜん聞かない。学校や園、地域の集まり、隣近所の立ち話など、けっこう首を突っ込んでいるが、一度として「そういう親」を見聞きしたことがない。
「うちの子さえよければいい」と自己中心的で、コミュニケーションが希薄化した親が、急増しているという。そうした親たちは、とにかく口を開けば要求ばかりで、学校が応えないと苦情になる。苦情はエスカレートし、担任や校長への個人攻撃に発展し、果てはネットやメールを駆使して根も葉もない誹謗中傷をまきちらす。これは子どもの「いじめ」と大差ないという。
「わが子が問題のある子といわれなければいい」という心理の裏側に、自分が「育て方に問題のある親」と言われたくない恐れが隠されている。この防衛心が働いて、子どもが問題を起こしたという事実を絶対に認めようとしない。「うちの子は悪いことをするような子ではありません」と全否定し、「悪いのは学校だ」と責めてくるんだってー。
著者の山脇氏は1969年生まれ。心理学を専攻したカウンセラーらしいが、この人が「親業」をやっているかどうか、かなり興味を惹かれるところだ。
さて、数字がぜんぜん出てこない、経験談と印象論で構成された本書を振り出しに、「学校と対立する親たち」の生態を、過去にさかのぼって見てみよう。
たとえば、山脇氏が中高生だった時代は、そういう狂育ママのことを「ママゴン」と呼んでいたよね。そしてこの頃は、「積み木くずし」が売れていたね。ええ、もちろん読んだよ。「わが子が不良化 = ダメ親の烙印」を恐れた有名俳優の釈明手記ですね、分かります。
自主性という名の放任主義の親、集団喫煙事件で息子の弁護士に早変わりする父親、「うちの子がバカなのは教師の教え方が悪い」とねじ込んでくる母親―― 子どものために手段を選ばぬバカ親たちの生態が痛い。
ねじ込む親。「うちの子が悪いことをするはずが無い」と子どもを信じるあまり、学校に圧力をかけてくる父親がいる。教師に直接苦情を言い立てるよりも、校長や教育委員会、後援会、果ては県議ルートから攻めてくる。
泣きつく親。「やればできる」信仰にすがりつく親と、「やってもできない」子どもの現実。進学させたいのは親の見栄なのであり、子どものためと思い込んでいることで自分をごまかしているにすぎない。偏差値34やる気のない生徒の尻をたたいて動かなかったら、教師の次の仕事は、親の願いをあきらめさせることになる。
現場の教師たちが体験した、「恐るべき親たち」の生態がよく分かる。子どもがおかしくなったのは親が原因であり、学校に矯正を求めるな!――教師の悲痛な叫びが聞こえてくる。
この時代には「恐るべき親たち」に「モンスター」だの「クレーマー」といった洒落た名前はついていなかった。だいたい、「クレーマー」なんて1999年の東芝クレーマー事件で広まったようなものだし。この時代なら、「ママゴン」「パパゴン」「オバタリアン」ぐらいかね。
この物語は、ムスコの偏差値が52であることを知って、愕然とするところから始まる。52て、ふつうやんと思うんだが、この母は「お医者さま」なのだ。そしてダンナも医者。つまり、医者の両親を持つムスコが「ふつう」であることにガマンならんらしい。
ムスコといえば、ひっこみ思案の頼りなさげなタイプで、その様子から「カイワレ族」と命名される。このムスコの尻をたたき、高校受験に向けて猛勉強をさせるママゴンに変身するさまが面白い。
放任してきたことを逆ギレしたムスコから指摘されて、最初に考えたことが「わたしにだって言い分はある」という自己中心的痛さが生々しい
で、あれだけ払った犠牲のワリには… 得たものがあまりに貧しく、二重三重に痛々しい。さらに、喉もと過ぎればなんとやら、「あの受験騒ぎ」が終わった後は、またいけしゃあしゃあと受験教育批判をくり返す。自分の放任を棚に上げて、教育の荒廃を招いたのは学校や文部省、臨時教育審議会だと断ずる、ステキな親だ。
よかれと思って指導に当たっていることについて、意外なほど曲解され、軽視されているんだって(もちろん原因は親)。「どうして、こうも分かってもらえないのだろう。このままでは、子どもたちはダメになってしまう」という教師の危機意識が累々と書かれている。
面と向かって「がっかりしましたよ、女の先生で、しかも新卒で!」と言い放ち、嫁いびりならぬ女教師いびりが始まる
不平不満の匿名電話、安全地帯から教育委員会や議員にコソコソ訴える親 一億総責任転嫁の時代だそうな。口を開けば「責任」「責任」と、教師の責任追及ばかりして、わが身を省みない親が多すぎるそうな。母親、父親の役割をちゃんとできない「未熟親」のもと、まともな子どもが育つわけがない、とセンセイ方は顔をしかめる。
この本の良心的なところは、「教育委員会など『外部』に訴え出る親」の主張も掲載しているところ。学校のことで問題が起きた場合、父母としては当然、信頼できる教師に相談したいと願うわけです。しかし、学校特有の事なかれ主義や、臭いものにはフタの姑息な保身主義にはばまれて、父母の率直な訴えがもみ消されてしまうのが実情です。担任、教頭、校長、PTA会長に善処を要望しても、「権限がない」「それは教育委員会」といって逃げてしまう。そうなれば教育委員会への直訴もやむをえないのではないか。おお、妙にリアルな主張だ。著者自身も「もっともな話」と同意している。ではどうすればいいか? その回答が笑える。おおいに議論すべき問題だ。父母と教師の相互理解の不足が不信感を増大させているから。これは、どちらが悪いと簡単に片付けられる問題ではない。本気になって話し合わなければならない問題だ。これでおしまい。ホントだよ。ダラダラ書きのばしているけれど、要するに「よく話し合わなければならない」で和了。イマドキ、中学生の作文でももうちっとブレークダウンするぞなもし。
今風にまとめるなら、「未熟で自己中な親」と「経験を積んだ(教育を受けた)教師」とのコミュニケーションエラー。あるいは、「親の無理解と非協力」により、「学校の教育指導」が阻害されている構図かなぁ。
「学校は死んだ」(川上源太郎、1973)は、当時のバカ親たちに面白い名前をつけている。わが子を学校に捨て子しておきながら、たいそうな口をきく連中は「ローカルちゃん」というそうな。
「ローカルちゃん」とは、世間知らずで厚顔無恥――自分のちっぽけな立場をオール・ジャパンに拡大して恥じない人のこと。つまり、新聞のローカル面に出てくる田舎名士で、視野が狭く、相対感覚を欠いている。さらに、限定的な地位と名誉と財産が世界の全てだと思い込んでいる人だと定義されている。
つまり、「ローカルちゃん」ママは、わが子だけが子どもだと思い、夫の職業だけが職業だと思い、自分の家庭だけが家庭だと思い込んでいる。何か問題が起きたとき、「ローカルちゃん」ママは、自分からもっとも離れた、自分とは全く関係のないところから、理由や責任を探し出そうとする。自分と自分の家庭の外に理由を求めて擬似的な解決をはかり、それで一件落着だと思い込む。
スパルタ教育、偏差値狂育がこれを助長する。東京都港区で、生後6ヶ月の乳児をかかえる小学校の女教師が自殺した。「育児疲れでは…」と口を濁しているが、一部の母親が「規定いっぱい産休をとるような教師にうちの子を任せられない」と突き上げていた事実が明るみに出た(毎日新聞1979.4.13)。教育ママたちの圧力が、先生を死に追い込む。
このような事態になっても、ローカルちゃんママは後ろめたいと思わない。悪いのはノイローゼになって勝手に自殺した女教師であり、むしろ思春期の感じやすい子どもに与えたダメージの方が大きい――と被害者ヅラを被ったまま。流行語にもなった「あっしにはかかわりのねえことでござんす」を地で行く親たちを見よ。教育ママではなく、「狂育ママ」はこの時代がピークだったような気が。ローカルちゃんママの典型は「素直な戦士たち」(城山三郎、1978)をどうぞ。
「こんな先生はヤメテしまえ」(佐藤弘毅、1976)が面白い。戦後の民主主義教育によって小学校から育てられた最初の世代が親になっており、学校をダメにしたすべての元凶はそこに行き着くと断言する。
「宅の子」の不都合を学校にねじ込む親は、そもそもの原因が自らにあることに気づけない。大学生になっても、うちの息子が「ゲバ学生」になったのは、大学が悪いと言い張る父親までいたそうな。
ポイントは、教育のまさに現場にいるはずの「教師」と答えたのが、たった8%ということ。あまつさえ、「父母」と答えたのがわずか2%とはこれいかに。教育とは、「お上」に任せるものという意識が蔓延していることがわかる。
親がうるさくなった理由として、「責任転嫁主義」の風潮がある。自分以外の悪人探しをして、そこに日ごろの不平不満を発散させる。環境が悪い、学校が悪い、政府が悪い、社会が悪い…いつでも自分以外のものが悪く、自分の責任は常に棚上げされる。自問する、反省するといった姿勢に欠けているのが特徴だという。
自分はいつでも「いい人」であり、公共の場でも「いい人ごっこ」の遊びをしたい、若い親たちが激増している。こうした三十代の親たちが、「学校を殺した」んだと。
じゃぁ戦後民主主義が全ての元凶かというと、そうでもない。当時、「センゴミンシュシュギ」は便利な言葉で、いいことも悪いことも、その「原因」に帰することができた。しかも、議論のきっかけも結論も、このマジックワードに収束・拡散させることができた。曰く「センゴミンシュシュギが教育の低下につながった」とか。
「日本の近代小学校と中等学校進学」(所澤潤・木村元、1988)によると、「廊下すずめ」というレッテルだそうな。戦前期の新中間層において、熱心にわが子の教育を考える親の典型として「廊下すずめ」と呼ばれていた母親たち。
「廊下すずめ」とは、学校にやってきて教室をうかがい歩く母親たち。子どもの勉強ぶりを監視する母親たちが日常的にいた。中には病欠の子どもに代わって登校し、一日の授業を受ける猛者もいた。廊下にすずなりになって静かに見守っている――わけがなかろう。かまびすしくおしゃべりしながら群れ集う母親は、ちゅんちゅんやかましいスズメにたとえられている。かしまし娘の親世代からして姦しかったということ。
また、「子供をめぐる親と教師の問題」(霜田静志、1936)によると、学校や教師に多様で過剰な要求を突きつける親が目立つようになったという。これは、親こそが子どもの教育の責任者だという観念の広まりとともに増加し、学校側との対立も少なからずあった。親の側の教育方針が内部に対立をはらむものであったとすると、彼らが学校に要求するものもばらばらにならざるをえない。わが子の教育に熱心になった親たちはさまざまなことを要求するようになった。しかし、「あれも」「これも」と求められても、学校はそうそうすべてに対応できるわけではない。父兄の要求する所と言っても、まちまちであって、これを一々迎える事になったらやりきれるものではないのである。ええと、70年後の今と変わらないグチなんだケド。
どの世代(職場・教室・地域)にも「困ったちゃん」がいるように、理不尽な要求を突きつける親たちはいる。しかし、そうした「困ったちゃん」が激増しているかのような印象操作をくり返すマスコミ・ライター連を見ると、「また君か」という気分になる。根拠と数字を元に議論しようよ。
新しい名前をつけて「発見」した気になるのはコロンブス・メソッド。ちっとは過去を見ろ。ママゴン、未熟児ならぬ未熟親、「ローカルちゃん」ママ、「責任転嫁」親、廊下すずめ、いろいろな名前で呼ばれてきた。「モンスターペアレントは、どこにいるか?」ではなく、「モンスターペアレントは、何と呼ばれてきたか」なんだね。
ろくに調べもしていないイメージが、ストーリーにすり代えられていく手法は舌を巻くほかない。こいつら文章上手いよ。けどね、その文、臭うよ。親の圧力を煙たがる学校と、対立を煽って対策を撒き散らすマッチポンプ役の売文屋、さらにそうした世相を憂う自称知識人の手垢と口臭で、ひどい臭いをたてている。
このイメージ、つまり、「未熟で自己中な親」と「経験豊かな教師」とのコミュニケーションエラーという構図が変わらないことに注目したい。時代が変われどもこのストーリーで説明されているのはなぜだろうか? 毎年毎年、無理解な「未熟親」が現れては無理難題をネジ込んでいるのが事実だからだろうか? 毎年毎年、「最近の親は…」と叩くストーリーこそが現実をピッタリ説明できるからだからなのか?
それよりも、これだけ年を経ても同じ問題が云々されるのなら、むしろ構造的なものがあるんじゃぁないかと勘ぐりたくなるね。
例えば、会社など外の組織で揉まれた親と、学校空間の内側に閉じた教師とのコミュニケーションギャップとか、ホメオスタシスな教師とトランジスタシス(by リツコ:EVA)な親とのせめぎあいとか、ちょっと別の「絵」も描けそうだが…
そして、この構図を仮説として、「社会の常識が通用しない v.s. 学校は社会と違う」的な議論に持っていったらリアルかも。あるいは、杉並の和田中学がやっている「夜スペシャル」の反応を、「学校」と「親」に分けて調査してみるとか。さらに、継続的に「苦情」が寄せられる学校とそうでない学校との違い、公立校と私立校への「要望・苦情」の濃度や種類を分類すると、数字を伴ったより具体的な話ができるかも。
男子のコミュニケーション能力の低下に起因するモテ格差は、今に始まったことではない。その一方で、オンナの子の手練手管指数は年々拡大しているのではないか。自分でも気づいていない「男子の本音」がこれほどまでセキララに暴かれている。
本書がスゴいのは、そうした本音下心を見透かされているだけでなく、模範回答まで紹介されているところ。露骨すぎず適度にオンナ心を伝える想定問答集を見ていると、なんだか寒いよママン。
問題を10問、用意した。オトコの発言のタテマエを見抜き、本音を暴いてほしい。かつ、(ここからが重要だが)そのホンネを汲み取った上での模範回答を考えてほしい。
アナタがオンナの子だったら「へへッ」と舌を出したくなるだろう。キミが男だったら、胸に手を当てて思い出してみてくれ、「こんな質問、したことあるよな」ってね。そして、「こんな返事、されたことあったな」ってね。
答1 : 似ているようで本音は全く異なるこのセリフ。前者はただの日常会話、「最近どうよ?」と同じノリ(ただし、「いない」への食いつき方から脈アリナシが分かれる)。問題なのは後者、「彼氏いるんでしょ?」の本音は、「ホントにいるとしても、頼む!『いない』と答えてくれーーー」という魂の叫びが込められているという。だから、安売禁止。適切な返答で下心を見極めろという。ちなみに、キープしたい男子への適切な返事は、「いつもそう言われるけれど… それって遊んでそうに見えるってことなのかな…」と上目遣いで彼を見つめ3秒停止。その後、ゆっくりと右下に向かって視線を外していけと(右利きの人は右下、左利きの人は左下にゆっくり視線を外すと、憂いをおびた美しい表情が作れるんだってー)。
答2 : セリフ単体にはホンネもタテマエもなし。日常会話「犬と猫、どっちが好き?」と同じレベル。ただ、どれぐらいの食いつきを見せるかで脈ありなしを判断せよと。だから、「オダギリジョー」なんて答えちゃうと男どもは萎縮してしまうので、「福山雅治」と答えるのが正解。なぜなら福山雅治は男も認めるカッコよさだからだそうな―― 脈アリと持たせたい男への模範回答は、「俺でもいけるんじゃない?」と期待を持たせ、かつ「ほんとっぽい」こと。「劇団ひとり」とか「品川庄治の庄治」あたりがよさげだそうな。ちなみに、わたしが現役(?)の頃は、「ホール&オーツのダリル・ホールが正解、間違ってもWHAM!のジョージ・マイケルと答えてはいけない」だった(出所 : 河よりも長くゆるやかに/吉田秋生)
答3 : これはトラップなので要注意。結婚願望が強いかどうかを見極めるためのうまいセリフ。オンナの子を悪い気持ちにさせずに、その子の本質をえぐりだすことができる賢いやり方なんだってー。口説いているわけでもないし、駆け引きをカンジさせないまま、ホンネが出てしまうそうな。だから、「よく言われるの!ワタシね、ワタシね、和食が得意なの!」と喜々と応じてしまうオンナの子は、「今がお買い得」の値札をぶら下げているようなもの。逆に「結婚願望ないんで」と拒絶するのもいかがなもの。正解は、「そう? ありがとう」と余裕の笑顔で応えるオンナにオトコどもは興味を湧かすそうな――ああああ、そういや嫁さんがそうだったような気が…
答4 : このセリフの裏側には、「見たところお金のかかりそうなオンナだけれど、実際はどのくらいお金のかかる女なのか」という切実なホンネが隠されている。「給料日前のチープデートでも応じてくれるのか」とか「カネをかける男にだけシッポを振るオンナなのか」を見極めたいらしい。亜流として「居酒屋とか大丈夫?」とか「ファミレスでデートってどう思う?」があるそうな。すまん、嫁さんが彼女だったころ、「つぼ八で大丈夫?」と聞いたことがあったが、他意は無いんだよママン!(絶叫)さておき、模範回答はこう、「今まで食べたことないけど、ずっと食べてみたいと思ってたの、だから行きたい行きたい、連れてってー」。だがこれは、脈をもたせたい男に対する模範回答で、安売りするつもりがないなら、初球は「今まで食べたことないけど」と答えるんだって。このセリフで「今までそこそこの扱いを受けてきた女だ」とクギを刺せる。そして、「ずっと食べてみたいと思ってたの」で彼を安心させることができる。
答5 : 彼女がいるかどうか、イエスかノーか問うているにもかかわらず、わざわざ「今は」を付け加えているところに注目ーってか、注目してほしい男心を分かってやれという。「何歳?」と質問されているのに、「いくつに見える?」と聞き返すのに匹敵するぐらいイライラするそうな(ごめんなさい、そう返したことがあります)。で、「今は」いないよの返事には「オトコの見栄」が隠されているという。「今は」いないけれど、少し前まではいたんだよ、だからモテないわけじゃないんだよ、という見栄なんだってー。このオトコを脈ありにしたいのなら、模範回答はこう、「じゃぁ、好きになってもいい?」――なんとゆー発言を。ただし、自分に自信があるオンナの子に限るそうな。そうでない子なら、彼の発言の後、2秒の間をおいて、心からうれしそうな顔をして、「よかった…」と応ずる。このとき、自分の胸に手を添えて、心からホッとしたような仕草をプラスすると効果大だそうな。オンナの子の上級者は、「今は」にツッコむんだって。「"今は"ってどうい意味?」と、あえて「今は」と付け加えている予想を裏切るようにすると、男のほうもドキッが生まれる(らしい)。「彼女とか、います?」なんて訊かれたことはあっても、「ずっといないよ」しか返したことがなかったからなー(遠い目 with 涙)。
答6 : 「一応」ってなんやねん!とツッコミたいところだが、ここに男の下心が垣間見える。よくあるパターンは「一応いるけど、最近会ってないかな」とか「彼女? 一応いるけど、妹みたいな感じだな」。ホンネは妻帯者の「最近、妻とうまくいってないんだ」と同じ。決まった人がいることは伝えたんだから、攻めてくるなら自己責任でよろしく、というやつ。キミにその気があるなら遊んだっていいけれど、「あそび」だからね、本気になられても困るよ? という線が引かれているそうな(これを予防線という)。そもそも本当にいるのかどうかも分からないから、要注意。「彼女がいる」という予防線を張っておいて、遊ぶつもりの相手がホンキになったら、「これ以上踏み込んでくるな!」と盾にする非道な男もいるそうな。嫁さんが彼女だったころ、「彼女とか、います?」なんて訊かれたとき、「一応いるけど…」なんて返したこと…ないない、ないですぞー(遠い目 without 涙)。
答6 : 「今度電話してもいい?」→「別にいいよ」、「今度一緒に映画にいこうよ」→「別にいいよ」といった、一見冷たい返事。これは嬉しさを表に出すのは恥ずかしいから「別にいいよ」と答えているんだってー(な、なんだってーΩΩΩ)。本当にイヤなら、「考えておく」とか「ちょっと忙しいかも」と遠まわしに断るいっぽうで、「ヤッター嬉しいな!」なんてはしゃぐとオトコのコケンにかかわるらしい。
答7 : WORNING! 下心アリアリだそうな。あるいは脈ありとみなしてOKらしい。「動物好き」をアピールする場合も同様で、「子どもや動物好きに悪いヤツはいない」という暗黙の了解にのっとって、「俺っていい人なんだよ」といいたいらしい。脈をもたせたいなら「私も(子どもが)大好き」と彼の目を見ながら言ってみろと。その後、ボディタッチしてきたら「子どもをつくる行為がしたい」サインになるし、身近な子どもの話をしだしたら、「ホントに子ども好き」と判断できるそうな
答9 : 「ずっと黙ってるけど、楽しくないの?」→「そういうんじゃないよ」、「最近会ってくれないけれど、他に好きな娘でもできたの?」→「そういうんじゃないよ」というやつ。残念ながら、悲しい意味が隠されている。答えはイエスなんだが、ズバリ言ってしまうと事態を悪化されてしまうので「そういうんじゃないよ」とお茶をにごしたい気持ち。例えば、「私のこと、飽きちゃった?」への「そういうんじゃないよ」は、「イエスと答えると、泣いたりわめいたり面倒くさいよな」というホンネがある。だから、「じゃぁ、どういうこと? なんで最近連絡をくれないのよ」などとしつこく追及すると――言わずもがなですな。この場合の模範回答は、「ない」そうな。だいたい「私のこと、飽きちゃったの?」なんて問うなら自分でも分かってるでしょ、そうなる前にどうにかしなきゃ、と突き放す。古典的なテだけれど、「押してダメなら引いてみな」は、男女関係にも使えるという。つまり、ちょっと距離をおいてみるわけだ。その結果、「やっぱり必要だ」と彼から近寄ってくるか、これ幸いとばかりに逃げられるかは――
答10 : 付き合っている彼に言われたならば、要注意。実によくあるセリフなのだが、「んもぉ、エッチなんだからー」なんて喜んでる場合じゃないらしい。予め断っておく。このセリフ、使ったことが「ある」が、ホンネは違うよ!そういう「場合」があるってことだよ!(って誰に断ってるんだろう?)じゃぁどういう場合か? 一緒にお風呂に入った彼が、彼女の股間をしこたま触ってきた場合、あるいは、お風呂に入らずエッチモードに突入してパンツ脱がされてアレアレされているとき、突然彼が「やっぱシャワーしよっか」と言い出したとき――あれは、彼が洗ってくれてるワケ。言い換えると、オマエ、臭いよのサイン(な、なんだってーΩΩΩ)。彼らの生々しい意見は本書で確認していただくとして、「愛撫してるフリして洗ってやる」男子がいかに多いことか。「彼が舐めてくれません(私はしてあげるのに)、これって愛されていないことですか?」などと発言小町に書き込む前に、ちょっと待て、ちゃんと洗ってますかと著者は詰め寄る。ええと、わたしは臭いがあるほうが好きなので (///) コメント控えめにしたいが、「臭い」関係はとてもデリケート。口臭、体臭、ワキガ、股間臭、言い難いし、言った方が悪者になってしまう。
だから、本書に協力した男性陣(なんと70名!)は、「俺がそうすることで気づかせてあげるのは、愛情」だと断言する。これついては誰も教えてくれない(自分で気づきにくいからね)。
オンナの子の感度はきわめて高い。鋭すぎるぐらいだ。デリカシーのない男が傷つけないように伝えるのは至難の技。「オトコは黙って」は古いかもしれないけれど、行動で示そうとする彼のやさしさなんだと受け取ってあげてくださいませ。
それから男子、完全に見切られてますぜ、どうしよう――って、どうしようもないね。恋愛経験値の多寡に限らず、キャラ作ったって、オトコのホンネなんて丸見えモロ見え、リーチミエミエ。見栄張ってるぶん恥ずかしい。
こういう「駆け引き本」を読んだ後は、「パカヤロ!ホントの自分、言いたいこと言ってやれ」と鼓舞したくなる。生きてる限り 石コロだらけでも大きな声でマンジャーレ!カンターレ!アモーレ!止まることない男女の道、だから終わらない愛を歌おう。わが道を突きすすめ、デタラメなキャラでもいいんだから。
もともと、某ゲームのモデルだという噂に惹かれて手を出した「おもいでエマノン」。ストーリーは違えども、生命誕生から現在までのすべての記憶を持つ彼女は、わたしの中に永くいつづけてきた。
すんなり伸びた肢体、長い髪、おおきな瞳、そばかす――ちょっとエキセントリックな彼女には、くわえ煙草が似合う。鶴田謙二氏が「SFオールタイムヒロイン」というのもむべなるかな。ちなみに、わたしにとってSFオールタイムヒロインのベスト3はこれ。
傷心をかかえた「ぼく」と怖いくらい共鳴しながら読む。物語を消費するのではなく一体化する感覚。思い入れが強すぎて、レビューよりも、思い出話をしたくなる。マンガ読んでこんなに切ない気持ちになったのは久しぶり。
ずいぶん古いSF小説だから、未読の方も多いかと。鶴田版「エマノン」が出たおかげで、マンガ→小説の順が鉄板のオススメルートになる。なぜなら、小説にはマンガの続きがあるのだから。そして、小説のエマノンがこれ以上ないほどの「彼女」になっているから。

 

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