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綺麗事とは?/ ノーローン

[ 493] 綺麗事と一般論
[引用サイト]  http://www.geocities.jp/kireigoto_to_ippanron/

たまには時事ネタをば。昨日4月30日、借り物の車を持ち主に返そうと運転していると、大渋滞に巻き込まれた。会社帰りの時間帯とはいえ、ここは地方都市未満。そんなに混むはずもない道である。それも進まない具合が半端じゃない。信号が赤から青に変わってまた赤になっても一台も進まないレベル。同じ信号で8回くらい待たされた。別に急ぎでもないが、さすがにイライラが募る。事故か工事かとも思ったのだが、違うようだ。どうもどこかの店に入ろうとしている車が多くて、その後ろが滞っているようだ。最終的に、しびれを切らした車が片側一車線の道を、強引に二車線仕様にして追い越して行った。便乗して後ろに付いていきながら、その行列の先をちらりと振り返るとガソリンスタンド。まぁ察しの良い方はとっくに気づいていたんでしょうが、そうですね、暫定税率復活ってんでその前に給油しようとしてる車の列だったんですね。でも恥ずかしながら、そういった社会情勢を知らなかった。行列ができて交通を乱しまくっているガソリンスタンドを数軒通り過ぎてやっと思い当たって、ラジオでニュース聞いたら案の定ですわ。いやー、でもこういうことがあると本当に政治に無関心ではいられないと思う。新聞取らずにネットで世界の珍ニュースとか見てても駄目だ。これからは社会の動きに敏感になって、国民のひとりひとりが政治を動かしていかなくてはならないのだと思う。そしてどうにかして、公道にはみ出さないようガソリンスタンドの敷地面積を広くしていくべきなんだ。
くだらないトイレの落書きを見た。「備えつけの紙以外はご使用にならないでください」といった注意書きの上に「備えづげの紙以外ばご使用にならないでくだざい」みたいな。笑いどころも独創性もなく、中途半端極まりない。こういうのを書く人間が何を考えているのか知りたい。別に馬鹿にしているわけでも非難しているわけでもない。純粋にその人物の心境が知りたい。例えば頭の中が女性器のことでいっぱいになってしまって、トイレの壁にその俗称を殴り書きする中学生、というのなら分かる。彼らの性欲は理屈を超えるからだ。あるいは振られた腹いせに「○○は誰でもSEXする」といった中傷を名前と電話番号と共に数々のトイレに記していく男、というのも理解できる。彼の目的は排便にはない。はじめからマジックを手に、トイレの扉を開けたのだろう。だが、冒頭の濁点落書きは違う。落書きの主は、元の注意書きを見てからそれを思いついたはずだ。たまたま書くものを手にして用を足していたとは考えにくいから、その後自分のバッグの中から筆記用具を取り出したのだろう。普通の人間はそこまでしない。落書きを思いついてから、ペンを取り出すまでの一手間、その瞬間の心理というのは一体どういったものなのだろうか……。ぞれを知るごどがでぎだら、もう少じ日記が書げる気がずるんだ。
フェティシズム。呪物崇拝。あるいは異常性欲の一つ。フェチという言葉が簡単に使われるようになって久しい。言葉の意味なんて変わっていくものだから難癖をつける気はないが、「俺は○○フェチだから」なんて女の子の前で平気で言ってしまう男とかを見ると違和感を感じる。脚フェチを名乗るからには脚が単品で机の上にどんと乗ってても興奮してほしい。制服フェチにしたって本当に制服そのものに欲情しているのか。綺麗な女の子が身に付けたシチュエーション限定で制服が好き、なんてフェティシズムと言えるのか。ところで先日、靴屋に入って子ども用の靴のコーナーに釘付けになった。小さいながらもきちんと作りこまれたフォルム。成長とともにすぐに履けなくなってしまう儚さ。値段を見てもう少しで買いそうになった。親戚、知り合いを含めても自分の周りに一人も幼児などいやしないのに。怖い? 僕だって自分で自分が怖いよ。
(中島みゆきに興味がない人には全く意味のない日記になった。ところでかつて誰かがこのサイトの日記に興味をもったことがあっただろうか。いや、ない。)ツ○ヤで半額レンタルをやっていた。普段、映像作品を借りることはめったにないのだが、150円なら食指も動く。中島みゆき原作の映画『2/2』を発見。瀬戸朝香とか渡部篤郎とか僕ですら知っている名前があって結構キャストが豪華そうだけど、別に中島みゆき自身が出ているわけではない。半額じゃなきゃ借りない微妙なラインだ。借りた。しかしこれが酷かった。「原作の方が……」とか知った風な口は死んでも利きたくなかったのだが、これは流石にどうだろう、という出来。僕は舞台の方は未見で、小説の方しか読んでないんだけど、この作品の一番大事な部分がすっぽりと抜け落ちている。そりゃ、中島みゆき自身も本業の小説家じゃないから陳腐な部分は原作にもあった。でも何もこんなに駄目な部分だけ抽出しなくてもいいじゃないか。第一にタイトルの『2/2』に含まれる多重性が完全に無視されている。たぶんこんな話題性のなさそうな原作を選んだということは、事の始めには「中島みゆきが好き」という誰かの想いが絡んでいたんだろう。それがこんな結果に終わることが悲しすぎる。まぁ舞台と映画の差もあるのかなと、そっち方面に疎い自分ではあるが類推できる。原作のように主人公1人にスポットをあてていたら映像作品としてはもたなかったのだろう。だから男(原作では主人公の相手役)に余計な設定を加えてしまい、結果としてああいう終わり方にするしかなくなってしまったのだろう。というような生意気な口を聞くためにはせめて舞台の方の『夜会2/2』のDVDを見ないわけにはいくまい。残念ながらこっちはレンタル化されていない。今まで高くて手が出なかったが、この機会に……。買った。150円のレンタルが7140円の出費を呼び込む。安物買いの銭失いってこういうことを言うんだな。
実家に帰った時に2つ下の妹とした会話。「ねぇ、USBメモリっていうのが欲しいんだけど、どこで買えばいいの?」「いや、普通に電器屋とかで……。あれ、でも既に持ってなかったっけ?」「あれは、いっぱいになった」「え?」「なんか写真とかたくさん入れてたら書き込めなくなった」「あのさー、USBメモリってそうやって使うもんじゃなくね。データの持ち運びっていうかさ。ある程度溜まったらパソコンに整理しないと。それでも容量オーバーになったら外付けハードディスクでも買ってさ」「よくわかんない。めんどくさい」「いや、でもさ、そんないっぱいになる度に買い換えてたんじゃもったいないだろ」「それぐらいのお金は稼いでるから」いつまでも学生ですみません。この後、妹にステーキを奢ってもらいました。
昨日のことなど思い出したくはない。当日ならばなおさらだ。三日前のことなど覚えてはいない。一週間経てばその日、自分が生きていたのかさえ不明確だ。伝えたいことがないというのは幸せだということです。労働してもいないのに毎日ご飯が食べられて、寝る場所がある。なにより目指すべき地点がある。僕は幸せです。僕は幸せです。伝えたいことを伝えられないのは不幸せなことだ。何か長い糸のようなものがたくさん体に絡みついている気がする。前が見えないというほどのこともないのだけれど……。とりあえず今日は溜まっている洗濯物を洗ってしまおう。そして日記を久しぶりに書いてみよう。書いた。洗濯は明日。 

 

[ 494] DABUN extra: 「綺麗事」
[引用サイト]  http://octacore.egoism.jp/blog/2004/12/post_35.html

この番組は随分昔に一度見たことがあるけれど、何が面白いのかわからなくて、その後二度と見なかったのだけれど、まだ続いていたようだ。ともあれ、番組自体にどうということを言いたいわけじゃないので、それについてはこのくらいにして。
ざっと読んで感じたのは、とてつもない違和感である。このメンバーたちがどれだけの間、旅をしてきたのかわからないけれど、今は少なくともエチオピアを旅している。常識で考えて豊かな国ではないことくらいはわかるはずだろうと思う。そして、食習慣が違う国であることくらいわかることだろうと思う。そして、そのような文化を持つ国に興味を持つからこそ旅に出るのだろうと勝手に思っていた。
考えてみて欲しい。貧しい国で食事を残すということの傲慢さを。人が飢え死んでいく国で、口に合わないという理由で、食事を置き去りにする自覚のなさを。その食事を誰かに分け与えれば誰かの命が救われるかもしれないその国で不味いという言葉を吐くことの配慮のなさを。エチオピア人のドライバーが怒るのも当然である。この国では食べられることは感謝すべきことなのだから。
このようなごく当然のことを世界を旅しながら理解しない。こういう若者が世界を旅することは、世界に摩擦を産む。それゆえかその翌日、ドライバーは彼らを孤児院に連れて行く。
彼らは子供達を見てかわいいと感じる、そしてその子供達の現実に言葉を失う。そしてそれらが先進国の経済によって招かれたものであることを知る。そして彼らはそのことを知り、しばし話し合い、悲しむ。
が、結局のところ彼らは、その現実を受け入れようとはしないのである。メンバーの一人が言う。「正直に話すけど、私、綺麗事が私ホンマに嫌いで、だから妙に正当ぶってる人間がムカつくって言うか、簡単には自分は変われへんと思う」「やけど自分の国が豊か過ぎて豊かに育ってきたから。はっきり言って、日本に帰っても、生活や自分は変わらんと思うから」と。
すると、他のメンバーが乗じて言う「でも、そりゃあ、俺だって日本人的考え方持ってるから、絶対日本人的な生活が好きなんだよ、正直ね。いや、おれはそれ全部否定するのは間違ってると思う。」
ここで、話のすり替えが起きかけていることに気づかなければいけない。本来、ここで問われていることは全否定と全肯定の二者択一ではない。なぜなら国際社会のシステムを全て変えることなど個人には不可能であることは自明であり、問い自体が無効なのだから。即ち、ここで問われるべきは、個人に可能な、世の中をわずかでもマシにできる具体案であるはずだ。
そのとき、「正当ぶってる人間がムカつくって言うか、簡単には自分は変われへんと思う」と言う言葉は何を意味するか。「何が正しいか知らないけれど、自分の生活は変えない。他人の為に自分の生活を犠牲にしたくない。」という拒絶である。つまり、「今の自分の生活は快適だし、楽しい。だから、その裏でどんな悲劇が起きているかなんてことは知りたくないし、教えて欲しくなかった。そういう現実のドロドロした汚い部分なんか見たくない、見せられると自分の責任を押し付けられているようで、イヤな気分になる。だから、そんなこと教えようとしてくる人は嫌いだし、ムカつく。」と言っているのである。
彼女の言う「綺麗事」とは、おそらく「社会正義」や「現実」のことである。普通「綺麗事」と言うときには「君の瞳には夜空の星より美しい星が輝いている」とかなんとかいうような薄っぺらい現実味のない口説き文句などに代表される現実から遊離した言葉を指す。つまり、このようなシステムの犠牲になり、不幸になっている人々を「伝染病か何かが広まって、農作物を作るような人達が亡くなって飢餓になってったんじゃないかなと・・・」というような形で捉えることを「綺麗事」と言うべきなのである。つまり、無自覚による美化こそが本来「綺麗事」と言われる。
だから、本当に彼女が普通の意味で「綺麗事」が嫌いだと言うのであれば、「アフリカでは先進諸国の経済の犠牲になって日々人々が死んでいくけれど、私は生活を変えない。私のせいで何人死のうとも絶対に変えない。」という風に意識して生活しなければならなくなる。まさかそれほど自覚的に邪悪になることを目指しているとは思えない。だから、「綺麗事」を「社会正義」や「現実」と捉えていると解釈したのだけれども。
しかし、これでは結局のところ、彼女は世界を旅することで何も学ばないと宣言したのとほぼ変わらない。見た事すら拒んでいるのだから。つまり、普通の意味における「綺麗事」の世界を選んだのである。これでは旅は絵ハガキほどの重さしかない。
「あのー、日中からこんな話しをして申し訳ないがうんこをする時にあの、紙7ターンぐらい折って使ってたんですけど、だから、3ターンぐらいに」単なる冗談で言っているのならばこれほど趣味の悪い冗談もない、だが、「綺麗事」などという言葉を使った抽象的な逃げゼリフよりはいくらかマシなセリフである。なぜなら少なくとも実践的ではあるから。
つまり「うんこ」の話をした彼以外は、そのような具体案を何も持たず、ただ、そういう話を贖罪的に話していたに過ぎず、突然出てきた「綺麗事」でない話に絶句したということなのだろう。所詮、旅にかこつけて「綺麗事」の恋愛ごっこをしようなんて番組に応募する人々なのだから、そんなものか。とはいえ、無自覚な人々に多少の石を投げかけることのできるのはこういう番組だけなのかもしれない。
でも、もし仮に、エチオピア(いや、エチオピアでなくてもいい)で邦人が人質にとられたり、殺害された場合、彼女の発言とそれを流した番組の責任は、いかほどのものになるんでしょうかね?
何度か読み返してみましたが、来生さんのいわんとされてることがちょっと理解できないままお返事を書いています。
でも、もし仮に、エチオピア(いや、エチオピアでなくてもいい)で邦人が人質にとられたり、殺害された場合、彼女の発言とそれを流した番組の責任は、いかほどのものになるんでしょうかね?
う?ん。彼女及び彼らはエチオピアの人々に対し、大変失礼なことをしている。これは確かに事実です。しかし、それが死に値することなのか。というとそんなことはないだろうと思います。確かにエチオピアの人々にとって実に腹立たしい内容の番組でありましょう。が、死に瀕した彼らが食物を祖末にする日本の若者に怒るのは、「生」がいかに簡単に失われるか、そしてそれがいかに悲しいか、ということを肌で知っているからであろうと思います。ですから、戦争が起きているわけでもないのに、たやすく人を殺さないだろう。金銭のトラブルがあったり、直接的にドライバー及びエチオピアの人々に危害を加えないかぎり、そのようなことはないだろう。と推測します。なぜなら悲しむべき事に、そのような無自覚な先進諸国の仕打ちに彼らが馴れきって疲弊しているはずであり、そのようなエネルギーはよほどでないかぎり湧いてこないだろうし、またなにより、殺意を抱くような人であれば、おそらくその場で殺しているはずです。ですから彼らを孤児院に連れては行かないでしょう。また孤児院に連れて行くことを思いつくということは、孤児院のある場所を知っていて、マザーに会う手はずを整える方法を知っているということであり、それはドライバーが孤児院に出入りしていること、彼が信心深い人間であり、子供達の為に何かをする気持ちがあることを示しています。ということは彼はこの国の中でも殺人を犯しにくい種類の人間であることがわかります。そして、孤児院の現実を知る事によって少しでも日本人の若者が変わることを期待できる気持ちがあることもわかります。ということはドライバーが彼女と彼らを殺す可能性は皆無に等しい。ドライバーのはらわたは煮えくり返っているかもしれませんが。それでもほとんどない可能性と言っていいでしょう。
ですから「ドライバーが彼女の命を奪わなかったことだけでも彼女は感謝すべき」というのはちょっと当たらないのではないかと思います。またそのように考えるのはドライバーに対して失礼でもあろうと思います。
もともとこの番組はおそらく、「旅で親密になったついでのドサクサでカップルを作っちゃえ。そんでどうせ旅するならスケールでかい旅の方がロマンチックだよね。」というような、お気軽テイストの番組でありましょう。ですから、ターゲットになる視聴者層に、彼らに怒りを感じるような人は入っていないと思われます。ですから、そのような責任が生じる可能性は極めて低い。僕のような人間が取沙汰することもほとんどないでしょう。ましてや、それが政治的場面で取沙汰されることなど恐らく、ない。と断言してしまっても構わない。いわば精神的に大人になっていない大人の為の子供番組でしょう。これは一度ご覧になれば恐らく理解頂けると思います。
つまり、どこの国にでもこのような人々はいる。という見本に過ぎません。ですからこれをまともに相手にするなんて変わり者はそうはいない。と自分でも思います。また、相手にしても仕方ない種類の輩です。彼らに責任を問うことなど無意味で、そのような話は通じないと考えていい。
要するに、「ネオナチがいるからドイツはひどい国だ。ドイツ人はひどい人種だ。」などと誰も言わない。これと同種の「本来は特殊であるべき人」であると考えていいんではないか。
だから、問うべき問題は彼女と彼らと番組スタッフの責任ではなく、そのような個別の無自覚を産み、そのような彼らの為の番組が成立してしまうほど、彼らの人口を肥大させてしまった日本の社会の甘さであるんじゃないでしょうか。これは個別の彼らに責任を問うても無駄なことです。むしろ個別の問題に帰結させることは問題の矮小化に繋がるんではないでしょうか。
運転手の方が優しい方であり、それゆえ「孤児院」にまで連れて行ってくださったのに、そのことに対して、彼女は心のそこから「ありがとう」の言葉を発することができない。その運転手を含めて、「正当ぶってる人間がムカつく」と発言している。
「国境」を越え「文化」を越えて旅をしているという自覚なしに、その「境界」(差異)を教えようとしてくださった方に、ケンカを売っているようなものである。「簡単には自分は変われへんと思う」ということは、「そういう考え方をする私を、私は変えることができない」という意味も含んでいると思います。
そういう考えを変えないまま「文化」の境界を越えていく人々が多くなっているのであれば、そういった人々は、それ相応の報酬を受ける覚悟が必要ではないのでしょうか?
つまり、彼女のしていることは、行った国の事情を理解しようとしない行為であり、そもそも日本の中にいるときと同じ状態がエチオピアで維持されないことに対する不満でしかない。
おっしゃるように「国境」を越えているという意識がない。というよりはエチオピアが日本でないという不平を漏らしているわけで、これは文化の強要であり、文化に対する強姦であるでしょう。(むろん、彼女にはそのような行為をしている意識すらないでしょう。が、それにより彼女の行為が免責されるわけではない。)
問題が別なので、本文中には入れ損ねましたが、他の問題も件のLinkには含まれています。これは彼女ではなく別のメンバーの男性の言葉ですが、「ダムなり、何かを作ってあげるのは簡単だけど彼らにそういった技術を教えて教育をしてあげれば、彼らがまた会社を起こせるわけじゃん」というのがあります。
これもまた、文化的侵略に他なりません。エチオピアの人々にとってそれが必要であるかどうか、ということはエチオピアの人々が考えることであって、先進国が必要とか便利とか効率的だとかの尺度を売りつけたことが現在の状況を産んでいる。であるから、先進国の論理のお裾分けをしてはいけない。その発想が文化的侵略を産んだのです。
これが中でも年長で、学歴の高そうな人間の言葉であることに注目したいと思います。つまり、好むと好まざるに関わらず、先進国の枠内の発想でもって彼はエチオピアを見ている。もしかしたら、このような発想が自分の中にもあるかもしれない。このような不安を僕は感じました。
そして、こういった文化の押しつけこそがグローバリズムであり、アメリカ産の民主化であり、戦争の火種であるのではないか。こういう疑念を感じました。
彼女も彼もつまり、このグローバリズムの枠内でしか世界を見ていない。また、僕自身も彼らほどではないにしろ、そのような枠を抱えているかもしれない。彼らの問題ではなく、自分の問題として捉え直していくことが、平和的な世界を作っていくためのステップになるのではないか。そう思いました。
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