くださるとは?/ セントラルファイナンス
[ 243] 斎藤真実の「これみてくださる」
[引用サイト] http://yaplog.jp/mamiami/
今放送中の某大河ドラマのオープニングをご覧になって「あれっ??」と思った方、きっといらっしゃいますよね。 金箔を散りばめたような、きらびやかで心が動かされるような、かつ独特の落ち着きを思わせる画面構成・色調。 ところで、ある一人の画家の作品に触れる時、同じ画家の作品であっても「特にこの時代に描かれたものが好き!」というような好みが多少なりともあったりする。 クリムトは、全体として基本的に好きな画家・作品ではあるけれど、やはりそういう「個人的な勝手な好み」はあったりする。 彼の作品群の中で私が個人的に最も好きなものは、いわゆるクリムトの作風を象徴する女性を描いた作品ではなく、風景画。 この一連の風景画が素晴らしく美しくって、深々とした感動が迫ってきて、私は、この風景画こそ、クリムトの真髄なんじゃないか?と思ったりする。 目の前の景色の中にある要素のひとつひとつを、ひとつ残らずしっかりと確かめるように、キャンバスに定着させていくような、そんな感覚。 素のクリムトの息づかいのようなものが、そこにはあるのかもしれない、と、勝手に思いを込めて眺めたりするのでした。 いい天気だったこともあり緑がきらきらとまぶしく、紫陽花もいよいよ色付きはじめていて、いい所だな〜と、改めてしみじみと歩いた。 日差しを遮ってくれる豊かな森の中、木漏れ陽を浴びながら、土のままの道や整備されたウッドチップの道などを、登っていく。 夏日のような陽気だったにも関わらず、木々や土のおかげで、夢のように涼しい道々を、ゆっくりと、登っていく。 と、ついにてっぺんの本丸跡の石垣に出、地面が砂利や石だけになり、周囲に木々がなくなった途端、蓄積され溜まり続けているものすごい太陽の熱が、足下からぶわっ!と一気に上がってきた。 体が徐々に慣れてくれば、高い場所にある石垣の上を吹き抜ける風は、それはそれでまだまだ田舎の二本松辺りでは心地良くもあるのだけれど。 四大文明が興って以来、人による大規模な環境破壊が始まったとはよく言われるけれど、お城山は、地球規模の自然破壊と温暖化の縮図だと思った。 月山はじめ出羽三山は、昔から信仰の山として崇められている山だけれど、初めて下界からその姿を見た時、その感覚がしっくりときて、独特の感動があった。 どんどん登って行くと、夏スキーで有名なスキー場が、都会ナンバーのスキー客の車で溢れていて、賑わっていた。 けれど、昔からの自然信仰と、人の悦楽を求める開発と、その狭間の風景を見る気がして、なんとも複雑な気分になった。 個人的な感想だけど、どちらかと言うとこれまで見せていただいた作品は、適度に踏み締められた豊かな赤土の大地のような、そんなイメージだったのだけれど、今回、そのイメージと少しだけ違う(でも豊かな量感はそのままに)、水と空気の感触がより強くイメージされる作品があって、会場に入った瞬間、私はその作品に吸い寄せられた。 駅のホームで電車を待つ間、みちのくの初夏の涼しい夜気が、酔った顔や体に心地良く、ついついまたまた会話が弾み(笑)。 お昼、幼稚園が終わって帰ってきてニュースを見ると、さほど気にもかけていなかった揺れが、実は凄まじかったことを知った。 地震でずれた活断層の様子や地形の変化は、宇宙からでもはっきりと見て取れるんだろうけれど、社会を蝕む人の心のズレやひずみは、どんなに性能の良い衛星写真でも、見ることはできない。 見ることができないからこそ、人は人の心を憶測したり思いやったりするのだろうけれど、もしも見ることができたなら、様々な障害・悲しい事件を、取り除くことができるかもしれないのに、、、なんて思ってしまうこともあったりする。 人の心も、見えないけれど確実にあって、それは脳になのか心臓になのかそれとももっと違う精神の住処なのかは解らないけれど、ちゃんとあって、あるのに見えない。 見えない他人の心を、日々の生活の中で、電車で街で、たまたま居合わせた隣人の見えない心を、見えないからこそいいと言える、見えなくても信頼してその瞬間隣に居合わせることのできる、そんな世の中であってほしい。 反面、大きな塊の風が吹き抜け続ける大海原の、どこまでもどこまでも続く風景を眺めていたような、胸の空くような後味。 そして、その魅力的で愛嬌に溢れた大人物の周囲を彩る人々の魅力、大きく渦を巻き蠢き続けていたその時代の空気にも、思いを馳せたりして。 自分がもしこの時代の男子に産まれ、めぐりめぐって竜馬を知ることがあったなら、彼に惹かれ時勢と志に突き動かされ、歴史の扉を押しあける道の一端を担おうとしたかもしれないな、、。 司馬さんの、基本的に冷静で、史実・記録・現地での実感に基づいた、時に熱情のこもった文章は、幕末の乱世の大きな大きな風景を見せてくれるとともに、その中に在ったそれぞれの背景を持つ一人一人の人物の輪郭を、豊かに表現してくれている。 けっこうなボリュームで、野菜も充分入っていて、さすがに栄養素のバランスは良さそうだな、、と思いながらいただきました。 帰り道は、すっきりと見渡せる安達太良山を眺めながら、次回の教室のこと、今日接した生徒のことなど考えながら、ゆっくりと車を走らせました。 さてさて、今日はそんな日中でしたが、昨日は県立美術館と図書館に行き、そのまま期間限定でオープンしているカフェ・コパン美術館店でお茶をいただきました。 みなさん、「カフェやレストランがセットでの美術館」ということが当たり前で、芸術を堪能した後にひと息つく場所の大切さ、総合的な空間としての文化施設の必要性を体感して知っている。 ご夫婦でゆっくりと語り合いながら絵画鑑賞の後のお茶を楽しむ姿は、とても満たされているようで、ステキな時間を過ごしているんだな、というのが伝わってきました。 実は前の日、地図で発見し急遽行くことに決め一度チャレンジしていたのだけれど、足を運ぶのが少し遅くて、既に日が暮れ、とうとう山深い場所に立つその樹まで、たどり着くことができなかった。 けど、なんとなく気になって、やっぱり行かなくちゃいけないような気がして、次の日、思いきってアクセルを踏み、長い時間ハンドルを握った。 犠牲になってしまった方々は、いったいどういう「縁」で、あのような「狂気」に巡り会ってしまうことになったんだろうか。。。 「縁」というと、普段はいいイメージの「縁」しか見ていないけれど、物事全てに光と影の両面があり、多面的であるのと一緒で、「縁」だって、光もあれば影もある。 いったいどんな「縁」が自分を待ち受けているのかわからないけれど、今生きていることのありがたさを思い、それから、自分の周りの大切な人たちが、ステキな「縁」に包まれて生きていてくれるようにと、それを祈るばかりです。 この樹まで至る山道の周辺では、モリアオガエルの鳴き声にも似たカエルの声が近くで響き、初めて見るような大きな大きなミズバショウが小さな湿地に咲き(白い花弁だけで30センチもありました!!)、針葉樹・広葉樹が入り混じった森が広がっている。 その姿が視界に入ってきた瞬間、さすがの大栗もビックリ!するような、大きな大きな声をあげて驚いてしまった!! だから、ただでさえ大きなその栗の樹は、さらにさらに大きく高くそびえるように見え、ぐっと見上げることになる。 大栗のそばまで行き足下を見ると、去年の大栗の落ち葉、周辺の木々の落ち葉、そして、去年実って落下したのだろう小さい栗の実が、ポツポツと落ちている。 この樹に実る栗の実だけで、毎年いったいどれほどの山の生物が、命を長らえることができているのだろうか。。。 大栗の幹や枝の途中途中には、他の植物が着生していて、この一本の大きな樹それ自体が、豊かな豊かな「大地」や「森」そのもののよう。 ところで、「名峰・月山と向き合うように」立つ、と書いたけれど、これは実は大栗のすぐ下まで行ってみてわかったこと。 山道を登って大栗の足下に立ち、そしてそこから見える少しだけ開けた遠くの空に目をやったら、ぽっかりと開いた空間に、月山の姿が見えた。 人間から見たら、巨樹の寿命は「悠久」に等しいくらいの長さではあるのだけれど、それでも、半永久的にあり続ける山と比較すれば、限りある命。 発車のベルが鳴り、たくさんの人を乗せた新幹線が扉を閉めホームを去ろうとすると、去っていくその車両に向かって、それぞれにそれぞれの場所で手を振る人たちの姿があちこちに。 去っていく新幹線が見えなくなるまで見送り、それから踵を返して、1人また1人と、静かにホームを後にしていく。 勝手な想像だけれど、遠くの街に住む彼・彼女が、週末の休みを彼女・彼と一緒に過ごすためにやってきて、そして日曜日の夜、また遠くの街へと帰っていったのだろう。 だけど、遠くの街へと戻っていく大切な人を見送るという立場は一緒で、その寂しさも、少しずつ共有しあっているような感じ。 ぽつぽつとホームを去るその姿、その風景は、1人1人の切ない溜め息と涙、次に逢える日へのささやかな楽しみと希望とが入り混じったような風景で、まるで、ひとつの大きな集合体のように感じた。 見送り見送られるのは、その瞬間は時にたまらなく切なかったり寂しかったりするものだけれど、そうして誰かが誰かを思い見送る風景・見送られる風景というのは、その背後にある様々な心情や生活が垣間見えて、何とも言えない深い情緒に溢れているな、、、。 何かとセチガライ世の中、夜の闇に紛れ人知れずそっと身を隠し、、、という訳ではないですが(笑)、ちょいと旅に出ます。 ガソリンが益々高くなっている今日この頃ではありますが、布団に着がえ、スケッチブック、カメラ、とりあえずの食料・飲み物などをドカッと車に詰め込んで、ちょいと行ってきます。 そういえば今日は午後から晴れてきて、ゴンッと大きな塊の雲が、ゆっくりと高いところを渡っていきますね。 この言い回し、無意識のうちに全体でひとつの慣用句のように使ってしまっている言い回しだったので、全く気付きませんでした(笑)。 |
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