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そのものとは?/ セントラルファイナンス

[ 141] 404 Blog Not Found:カタカナ表記そのものが「間違い」?
[引用サイト]  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50938605.html

仕事上、各国の住所、氏名をカタカナ表記しなければならないときがありますが、英語・韓国語以外になると調べるのが大変です。
その後の『英語にも発音の揺らぎは結構ある。』という一文で、弾さんの仰りたいことは大体わかりますが・・・
「ブログ」のことをぜんぜん知らない50代の人が「プログ」「プログ」っと読んでました。「プログラミングログ」と間違えたのかしら。。。そもそも濁点とか醜いですしね・・・関係ないか?
それとは別に、デスクトップをディスクトップとか間違ってる人。逆に日本語の発音上、ディスクをデスク、ディズニーをデズニーと発音するのはありだと思うけど。
表記揺れの問題と、正しいとされている表記が実際の発音とずれている問題とは、意味合いが異なると思います。
英語はいい加減すぎる。発音とスペルも揺らぎがあるし、意味も滅茶苦茶な単語も多いと感じる。英単語は何であんなにも不自然な意味を内包している場合があるのだろうか?
カタカナは「日本語化された外国語」を示す記号であり、つまり日本語です。そして日本語である以上、たとえば中国を「シナ」とあえて呼ぶ人がそこにある「意味」を込めるように、そして「シナ」と「チャイナ」のニュアンスがまた絶対に違うように、別な表記には別な意味がまとわりつくのです。
表記を統一しようというのは結局の所「検索の手間」の問題に過ぎない。文化の問題というのは、そういう手数の多さをむしろ「善」だとするところにあるようです。
「いや」というのは逆接ではなく、『いや、確かに、これは英語でも「チカゴ」と発音する人も少なくない。』という意味で使っているのだと思います。
改めて読み直したところ、『いや』が、その後の『しかし』とワンセットだと考えるとよいのだと思いました。
文字表記が一定でも,その文字の発音が読み手の母語慣習依存になるというのは,ヨーロッパ圏ではよくある現象ですよね。
逆に気になるのが欧文における日本語の表記です。日本語の「ら行」はLでもRでもない音ですから,厳密にはアルファベットで表記できません。ひらがなをそのまま書ければ最良なのですが。
の「ん」を,舌と唇の位置に注意して発音してみてください。ひらがなは表音的ですが,文字と発音は一対一対応していません。
紹介 - 「出口の真っ正直インタビュー」でインタビューされました死亡記事にスターを付けるはてなーの気持ちが分かんない (あけろすにっき)
強者はなぜ遠くの弱者にばかり手を差し伸べるのか?夏休みの研究には、台所が大事かも (若だんなの新宿通信)

 

[ 142] 「いただきます・ごちそうさま」こそ日本文化そのもの - TERRAZINE
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/TERRAZI/20060122/p1

ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と。
「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」
いただきます・ごちそうさまは、料理を作ってくれた人に感謝し、食材を生産した人に感謝し、食材そのものに感謝する、人が人として生きていく上で、全てのものに感謝するという、日本古来の美しい伝統で文化だ。礼儀がどうの躾がどうの言う前に、日本人として最低限の挨拶くらいしろ。
ちなみに英語には「行ってきます・行ってらっしゃい」「ただいま・お帰りなさい」もない。こういった日常への感謝や思いやりといった豊かな表現を持つ日本語を使っていることに、誇りを持つべきであり、大切にすべきだ。
海外で評価の高い日本文化といえば「アニメ」。「名作アニメは食事もウマそう」と言われたりもするが、その中で「いただきます」といった日本語特有の表現はどのように置き換えられているのだろうか。手元のファイルから抜粋してみる。
『機動警察パトレイバー』より、待機中に抜け出してデート。サボっているのを気にする野明に、「当然って顔してりゃ問題ない」と言う遊馬。「そうだね。じゃ、いっただっきまーす」
TBSラジオ「永六輔その新世界」(土曜朝8時半〜、放送エリア・関東1都6県)で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。番組でのやり取りを参考に、改めて「いただきます」を考える。【文・遠藤和行、写真・米田堅持】
《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》
番組には数十通の反響があり、多くは申し入れに否定的だった。あるリスナーは「私は店で料理を持ってきてもらった時『いただきます』と言うし、支払いの時は『ごちそうさま』と言います。立ち食いそばなど作り手の顔が見える時は気持ちよく、よりおいしくなります」と寄せた。
一方、母親のような考え方は必ずしも珍しくないことを示す経験談もあった。「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」との内容だ。
また、申し入れを支持する手紙も数通あった。学校で「いただきます」を言う際、手を合わせることに「宗教的行為だ」、と疑問を投げかける人もいるという。
永さんは、中華料理店を営む友人の話を紹介した。その友人は「いただきます」と聞くとうれしいから、お客さんの「いただきます」の声が聞こえたら、デザートを無料で出すサービスをした。後日、永さんがサービスを後悔していないかと尋ねたところ「大丈夫です。そんなにいませんから」と言われたという。
ライフスタイルの変化で、家族がいても一人で食事をしたり、外食や市販弁当を食べる機会も増えています。その時「いただきます」と言っていますか。あなたやあなたの周囲の「いただきます」は変わりましたか。その理由は何でしょう。ラジオで紹介された申し入れへの是非でなく、皆さんの「いただきます考」をお寄せ下さい。後日、紙面で紹介します。
◆学校給食で「いただきます」を言うことへの抵抗は、以前からありました。それは、両手を合わせる姿が特定の宗教行為、つまり仏教に結びつかないか、という懸念です。宗教的なことを押し付けるのは僕も良くないと思います。でも「いただきます」という言葉は、宗教に関係していません。自然の世界と人間のお付き合いの問題です。
「お金を払っているから、いただきますと言わせないで」というのは、最近の話です。命でなく、お金に手を合わせちゃう。会社を売り買いするIT企業や投資ファンドにも共通点があると思います。話の発端になった母親は「いただきます」を言うかどうかを、物事を売る、買うという観点で決めているのでしょうね。売り買いはビジネスですから、そこに「ありがとう」という言葉は入ってきません。「ありがとう」に準ずる「いただきます」も入ってこない。ただ、そういう母親がいることも、認めないといけないと思います。
◆「あなたの命を私の命にさせていただきます」の、いただきます。でも僕は普段、家では言ったり言わなかったり。ましてや、他人には強制しません。絶対言わなきゃいけないとは思いません。きちんと残さないで食べれば、「いただきます」と言って残すより、いいと思うんです。
貧しい国には飢えて死んでいる人がいる。日本で残して捨てているご飯があれば、助かる子供たちがいっぱいいるわけでしょう。食べ物を大事にできているかどうか。言わないのが「ひどい」と反対することではない、と思います。
◆普通に会って「こんにちは」、別れるときに「さようなら」。何かの時に「ありがとうございます」「すみません」「ごめんなさい」という、普通の会話の中に「いただきます」は当然入ってくると思うんです。特別に「みんなで言おう」というのはおかしい気がします。言っても言わなくても、大声でも小声でつぶやくだけでも、思うだけでも、いいことにしましょう。
市町村やJAなど142団体でつくる「みやざきの食と農を考える県民会議」(会長・安藤忠恕知事)が、農産物の恵みに感謝するのに最も分かりやすい活動として取り上げた。「いただきますからはじめよう宣言」をし、「県民が食事の時にいただきますの言葉に乗せ、命の恵みを感謝する」などの方針を掲げた。
事務局の同県営農支援課は「子どもが朝食を抜いたり、家族全員の食事の機会が減っている中、食を見直そうという問題提起の意味もあります」と説明する。県内の公立小学校では給食時に「いただきます」「ごちそうさま」を唱えている。
2006/01/22 23:53 命を頂いてるんだと思って私は「いただきます」をいうようにしているけれど、宗教的なのは考えたこともなかった。あ、あとね、カロリーメイト状の物を食べる後先もそういうのは言わないのに気付いて笑っちゃった。同じような習慣で廃れて嬉しいのはご馳走様をいったあとでどこからか飛んでくる「お粗末さま」の声カナ。
2006/01/23 01:42 日本では宗教という言葉がつくだけで否定的に捕らえる人があまりにも多いけど、そもそも宗教と文化は切っても切り離せない関係で、むやみやたらと否定するべきモノではないです。日本の文化の中でも、日本人の思考のし方、物事の想像のしかたは儒教、仏教、神道に大きく影響されたモノです。命を頂く。というコメントがありますが、この考えも宗教的で、日本人ならではです。欧米では、食用肉は命として扱いません。しかし、鯨を食うことは人を食うのと同じ、命を食っているという捉え方なのです。欧米では、牛や豚が犬や鯨と同じ命であるという捕らえ方は宗教的にしていないのです。私は今回の問題を別の捉え方をしまして、『教育の中で、宗教を全否定するのは悪い事だろう。』と思っています。日本の昔からの教育の仕方は欧米人からは、放任主義で、全くしつけがなされていないと指摘されます。これは日本の宗教観に基づいた教育であり、欧米での宗教に基づいた教育とはハッキリ異なるのが原因です。下記等も参考にしてみてください。アメリカの”日本アニメ”オタク、JOHNに寄せられる質問と回答を日本語訳した話です。つまり、この質問者も回答者も英語圏の人です。http://www4.ocn.ne.jp/~tmf00a/08082005.html
2006/01/23 02:30 私の命を頂いているという思いはお野菜を食べるときにもあるんですが……それも日本人だから芽生えたものなのかしら?手をあわせる行為についてはクリスチャンの食前の祈りを何度も見ていたので、段々気になって来ました。いただきますの言葉に伴って行う意味を考え続けてみます。(おにいちゃん、勝手にレスコメントをしてごめんなさい)
2006/01/23 11:17 「命を頂いてる」という感覚は普段はありません。ただ、新米とか初鰹とか旬のおいしいものを食べた時は、ありがたく思うし、「日本人でよかったー!」と思います。「宗教と文化は切っても切り離せない関係」と言うのは同感です。ただ、現代日本に於いては「宗教的な文化」まで昇華しないと受け入れられないのではないでしょうか。宗教には神や教祖が存在しますが、多くの日本人にとってそれが特定の人間だと受け入れがたく、自然物だと受け入れるようです。これは欧米諸国にとって自然とは厳しいもの、克服するものという感覚があり、逆に日本人はありがたいものと考えているからでしょう。『教育の中で、宗教を全否定するのは悪い事』については、上のような事情と、織田信長など時の権力者の都合により否定されてきたのだと思います。「政教分離」の原則についても、本来は特定の宗教団体と政治が関わり過ぎてはいけない、ということなのに、宗教全体を分離すべきという風潮になっています。「欧米での宗教に基づいた教育」がどのようなものかわからないのですが、「神様はいつもあなたを見てらっしゃいます」が基本でしょうか。だから恥ずかしいことはするなと。もしそうならば、日本ではそれが、お天道様だったりご先祖様だったりしたのでしょう。あるいは怖い親父がいて「お父さんに叱ってもらうよ」だった。ところが最近は「ほら、あそこのおじちゃんに怒られるよ?笑われるよ?」なわけです。宗教というのは、弱い自分ダメな自分の代わりに、叱ったり励ましてくれる存在なのだと思います。私は無宗教で、どちらかというと宗教否定派です。無宗教でいると何でも自分でやらねばならないわけで、意外としんどいことです。ですが幸いなことに私のような者でもつきあってくれる神様のような人たちが周りにいるおかげで、なんとかなっています。それに今ではネットを覗けばそれこそ八百万の神様だらけです。私は「教育」という言葉にもアレルギー反応をするのですが、これらの神様たちの言葉は不思議と聞きたくなるものです。イエス様や孔子様は私に語りかけてくれませんが、彼等は直接語りかけてくれるからでしょう。つーか、話脱線しすぎですねw すみません。
2006/01/24 20:34 レスをさせていただきます。TERRAZIさんが「死ね」という表現を真に適切であると考えるなら、恐らくこの点において私が言えることはもうありません。ただ、「いただきます」という言葉は語源においては「神仏に供えた食事を賜ったことから」とあります。一方、永六輔さんが調べたものには「あなたの命を私の命としていただきます」という意味があるそうです。(記事全文にもありましたが)つまり、「いただきます」という言葉の根底には日本人の持つ「生命への畏敬の念」があるのだといえます。ならば、「死ね」と命を奪う言葉を軽々しく言うことと、「いただきます」と言わせないということは、結局同じ誤りを犯しているのだと私には思えます。あとEcoさんへ、私も別に読む気が失せたわけではありません。ただ、「いただきます」を文化として尊重すると述べるならば、そもそも日本人は相手に対し「死ね」と言い放つような文化であったのかということもまた、考えなければならないと思います。
2006/01/25 10:29 手を合わせていただきますと言うこと程度が宗教的でやらないと言うなら、正月に神社にいったり、門松飾ったり、ひな祭りや七五三やったり、お盆に墓参り行ったり、クリスマスを楽しんだり、お祭り行ったり、葬式したりなんて絶対すんなよと(ちょっと極論っぽくなりましたが、極論も論のうちということで)大体神道ってのはもう宗教じゃなくて、日本人の習慣の根本になってるものなんだからそれを否定し始めたら、生活できなくなる
2006/01/25 11:40 >死ね確かに始めは、なんだこの自己矛盾は思いました。がしかし、別にほんとに殺したいと思っているわけでもないんだろうからこれは一種の呪詛と考えられます。文化人類学のとっかかりとなったらしいインターナショナルな概念です。まあそこまでめんどくさいことを考えなくても、陰口くらいの言葉で十分でしょう。日本的な考えかたでいけば、これらを本人の前で言うことは憚られますが、そうでないところで言う分には別にいいんじゃねーの、といった感じです。このように本音と建前を使い分けるのが伝統的な日本人です。ということは陰で死ねということは、毛唐といい放つのと同様に別に日本の分化にミスマッチしているわけでもないと思われます。もともと此処は人徳の如何を説いているわけではなく日本の文化としてどうかということを説いているのですから、これは矛盾ではないのです。と自己解決してみたり。後congさんにですが、これは一般的な日本人には(というのは宗教的な意味で)理解しにくいかも知れませんが、真に自分の行うべき事を信条としてもっている人間はそーゆーこと(その信条に反すること)はやりません。例えば俺は遺族のために、また死者の記念のために仏式の葬式に出席はしますが、焼香したり献花したりはしません。「冥福」を祈ることもしません。遺族がそれを嫌がるのなら、謹んでお詫びし、立ち去ります。まあこういった人間も居るっちゅーことを覚えてもらえればうれしいかなと。まああれです。縦ヨミなので気にしないで。
2006/01/25 11:54 >死ねhitoさんに同じく。「死んでくれ(希望)」ではなくて、「どうかと思う」という一種の嫌悪感でしょう。いただきますの語源云々ではなく、これは一つの”挨拶”としてとらえて良いと思います。”おはよう””こんにちわ””こんばんわ”に一々意味を考えながら言う人は少ないと思いますし。作っていただいた事に関しての感謝の念だって感じたっていいはずです。そういう意味で「金を払ってるから例をしなくて良い」なんてのは正直、間違っても子供には伝えたくない物事です…。手を合わす云々については、宗教云々の話で嫌がるなら拒否してもいいんじゃないかなって思いますが。
2006/01/26 12:30 概ね同意なんですが、『英語には「行ってきます・行ってらっしゃい」「ただいま・お帰りなさい」という表現が無い』以下の英語圏との比較は不要と思われます。確かに、それらの表現に当たる言葉がないですけども、名前は知らない顔見知りの人に”Hello”と普通に挨拶する習慣もあり、日常でのおもいやりが無いわけではないです。英語を噛ませ犬に使わなくても日本語の素晴らしさは伝えられるはずです。
2006/03/05 10:34 給食費を支払っているから、「ごちそうさま」をいわせるな、とは驚いた。また、作ってくれた人感謝するのだという人もいるようだが、実は「自然の恵み」に感謝するのだよ。日本の現在の食料自給率は40%だそうだが、地球が天候不順に遭遇した場合、食糧事情は北朝鮮の比ではなくなることは必至。今、日本の農地は荒廃の極に達している。減反政策のような悪政を強行する政治家だって、その心などわかってはいまい。
2007/04/20 23:49 何か押し付けがましいものを感じる。それを誇りに思うのも大切に思うのも君の勝手。「誇りを持つべきだ」「大切に思うべきだ」そんなの君の価値観でしょ。いただきますごちそうさまの形式に囚われるのはごご自由だし、言わずとも、個人が何にどれほど深い理解を示して感謝の気持ちを抱くかなんぞ誰にも分かるまい。だのに、死ねだなんて。残虐非道な。別に言葉の揚げ足を取っているわけではなく。自分の価値観にずれた人間を見て、咄嗟に嫌悪感を抱くのはよくないよ。まして自らの価値観を保護するために文化を盾にしているのは気持ちが悪いです。食物の尊さを本質的に訴えようとか子供達に知って欲しいから書かれた記事ではないよね。そして子供たちには食物の尊さを「いただきます。ごちそうさま」を言う言わないとか、そういった大人のつまらない小競り合いの時限を超えて学んでいってもらいたい。

 

[ 143] 「IT投資」という考え方そのものが間違っている - 分裂勘違い君劇場
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060928/1159407912

ソフトウェアシステムの開発とは、経営行為そのものそのものであり、逆に言えば、江戸時代どころか、ローマの時代から、経営行為とは、ソフトウェアシステムの開発以外のなにものでもありませんでした。
たとえば、新しいビジネスを実現するための、新しい店舗オペレーションや配送システムの開発は、ソフトウェアシステムの開発そのものです。
●現場で柔軟な対応が出来、かつ、従業員の士気があがるような、責任・権限メカニズムと、それと連動した人事評価・報酬システムの設計。
●現実的に調達可能な人材と、十分な投資効果の見込める従業員教育システムと、それを前提とした効率的で現実的な店舗オペレーションの設計。
●もちろん、その新しい店舗オペレーションを実装するための、現実的な店舗レイアウト設計方針や、流通ネットワークの設計。
従業員のモチベーション設計、従業員規則の作成、顧客がリピートするための動機付け設計、責任・権限・意思決定メカニズムの設計は、社会システムのプログラミングです。
ウォルマートは、それほどの規模のITシステムを保有しているにもかかわらず、彼らの意識では、開発しているのは、あくまでより効率的で付加価値の高い店舗オペレーションであり究極的には彼らのビジネスそのものです。彼らは、ITシステムを開発しているわけではありません。
つまり、現代の経営においては、店舗オペレーションを設計するとき、客の導線や人材配置や組織メカニズムが一体となった一つのソフトウェアアーキテクチャとして設計するのが当たり前で、店舗オペレーション設計が終わった後に、それに必要なIT設備を開発するという発想そのものが、時代遅れなのです。
これと同じように、店舗オペレーションというソフトウェアシステムを設計するとき、どの部分を人材教育(脳神経プログラミング)や組織メカニズム(社会システムプログラミング)で実装し、どの部分をJavaで実装するかは、よく入れ替わるのです。脳神経ソフトウェアとコンピュータソフトウェアは、この意味で等価なのです。
そして、経営者が、あたらしいビジネス戦略を練り上げるとき、そもそも、どんな店舗オペレーションが可能で、どんな店舗オペレーションが実装不可能なのか、実現イメージを頭にもちながら、ビジネス設計をします。
たとえば、あたらしいコンセプトの有機野菜レストランチェーンを立ち上げるとき、はたして、そういう客層に対する、そういうサービスを提供するのに、これだけの人材と、これだけのアルバイトさんだけで、ほんとうに回せるのか?そこまで高品質なコンセプトでやろうとすると、店舗マニュアルが複雑になりすぎないか?そもそも、それを回せる人材は、これだけの期間で調達可能なのか?それだけの鮮度を保ったまま、契約農家から原料を配送可能なのか?有機農業は、天候による影響をどのように受けるリスクがあるのか?
つまり、「新規事業立ち上げ」という「新規ソフトウェア設計行為」をするとき、プログラミングでいうところの、コーディングイメージをもちながら、設計するのが当たり前なわけです。
なぜなら、あんなこともやりたい、こんなこともやりたい、というビジネスアイデアは、それが実装可能な場合のみ、いいアイデアであり、実装不可能なビジネスアイデアなど、ただのファンタジーであることを、経営者は、骨の髄まで分かっているからです。
言い換えれば、実装可能なソフトウェアと、そうでないソフトウェアの区別のつかない経営者は、無能な経営者です。
にもかかわらず、新規事業立ち上げというソフトウェア開発行為において、脳神経ソフトウェアや組織ソフトウェアとして実装されるコードは、実装可能性を精密に吟味しながら設計するのに、コンピュータソフトウェアとして実装される部分だけ、実装可能性を十分に吟味せずに、ビジネス設計するから、プロジェクトが頓挫したり、思ったような効果を上げないのです。
新しいコンセプトのレストランの店舗オペレーションを設計するとき、どのような作業なら、パートのおばさんだけで回せるのか判断のつかない経営者では、ろくな事業企画ができるはずもないのと同じように、どのようなソフトウェア機能なら、システム的ボトルネックが生じずに、かつ、ソフトウェアシステムの保守性が悪くならずに開発可能かどうかの検討がつかない経営者では、ろくな事業企画ができるわけがないのです。
そして、なぜ、ITシステムの開発が不確定要素が多く、計画通りに行かないかというと、それが、新規事業立ち上げにおける、新しい組織ソフトウェアやオペレーションの開発と本質的に同じだからです。
いままでやったことのない、新しいコンセプトのレストランで、新しい食材調達システムと、あたらしいサービス提供を実現するような、新しい店舗オペレーションを設計するときなんて、不確定要素だらけです。計画通りどころか、始めから、計画通りにいかないことを前提に、プロトタイプを作ってフィージビリティースタディーする工程を入れるなどを計画に盛り込むなんて、よくある話なのです。
にもかかわらず、コンピュータソフトウェアだけ別物だと考え、安易に計画通りに行くことを前提としてしまうから、話がおかしくなるのです。
新規事業を立ち上げるときに、そのための流通システムや店舗オペレーションやノウハウ蓄積の仕組みや人事評価・報酬システムの設計を、外注する会社は、あまりありません。たとえ、それが、どんなにたくさんの専門知識を必要としようと、自分たちで、全部理解し、自分たちで設計するしかありません。
なぜなら、それは、自社の経営行為そのものであり、それを外注にやってもらうのは、経営行為そのものを外注にやってもらうというような、意味不明の行為だからです。
これと同じように、自社の経営行為そのものである組織ソフトウェアと一体化したITシステムは、本質的に、外注できるようなものではなく、自社のビジネスを深く理解した自社のトップエンジニアと経営者が二人三脚で開発するようなものです。
アマゾンやGoogleやウォルマートが、高給を支払って、最上級レベルのエンジニアを自社で直接雇っているように、それぞれの企業が最上級レベルのエンジニアを直接雇うのが当たり前になる時代が、そのうちやってくるのではないでしょうか。
「真実性を求めて分析・洞察した結果、みなが幸せになれる、政治的に正しい結論になりました」というパターンのブログ記事
ここは極論を楽しむ劇場です。プロフィールページをよく読んで、真に受けたり鵜呑みしたりしないように気をつけてご鑑賞ください。

 

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