セントラルファイナンスのサイトです。
思い出し 前日 イコール 待ち望ん 紹介 プライバシー 事実 収集 とりあえず アラート 早期 申し込み 返済 毎月 返済 大手 差押 とくとく メガネ 消える 総会 日本経済新聞 行け キャスコ 自体 怖い 無理 概要 不可避 によって

俊彦とは?/ セントラルファイナンス

[ 72] Toshihiko Ise / 伊勢 俊彦
[引用サイト]  http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~tit03611/index-j.html

研究テーマ 人間の心のはたらきの自然なあり方と、規範に従った行動、たとえば他人のものに手を出さないとか、約束を守るとか、との関係。18世紀のスコットランドの哲学者ヒュームの議論の検討を中心に、現代の言語哲学や心の哲学の議論も参考にしながら考えている。
リチャード・ローティの講演が京都・大谷大学で行なわれた。タイトルは、「宗教と科学は対立するものなのか」。科学者であると同時に信仰者でもあるということが、知的に不誠実であるという非難に相当するかどうかという問題をとりあげ、プラグマティズムの立場からこれにノーと答えることによって、宗教とプラグマティズムが両立可能であることを示す、というのが大まかな筋である。主な論拠は、宗教と科学は別の目的を持った実践であり、宗教は、文学、哲学と同様に、人生の意味を探究する私的な企てであって、公的な場で科学と対立する必要はないというもの。
以下、感想。現代社会(ただし、民主主義的な価値観を採用する社会に限られるが)における宗教のあり方の提案としては、これで結構であろう。ひとつ気になるのは、科学の採用する世界の見方に、意味や価値の問題を容れる余地がないとされている点である。これは結局、事実と価値という、伝統的な哲学が前提とする二元論を肯定することにならないだろうか。もちろん、現在の自然科学の考え方を単純に延長することによって意味や価値の問題が解明されるとは考えられないだろう。しかし、科学と親和的であって、しかも意味や価値を排除しないような自然主義的な世界の見方は、なお探究に値すると思われる。そして、このような探究こそ、伝統的な哲学に対するローティの批判の精神に沿うものではないだろうか。
(ローティが結局のところ二元論に陥っているという批判は、別に独創的なものではない。そういう趣旨の議論はすでにジョン・マクダウェルが行なっている。しかしマクダウェル教授、もっと簡単な文章が書けませんかね。ちなみに、10月の9-10日、松江で行なわれる関西哲学会で、大阪市立大学の美濃正教授が、マクダウェルを批判する研究発表をなさる予定である。楽しみ。)
私もこのフォーラムには出席する予定だが、声の大きそうな人が多いので、発言の機会がない場合に備えて、私の言い分をあらかじめここに書いておくことにする。
・なぜなら自己犠牲的行為は、公共的規範が私的価値基準から引き出されるのではなく、私的価値基準と公共的規範が統合されずに対立していることを含意するからだ。
・私的価値基準と対立する公共的規範にしたがう行為は、宗教的儀礼のモデルにもとづいて説明される。ヒトがこうして公共的規範にしたがうとき、ヒトは理由にもとづいて行為しているのではなく、端的に規範にしたがっているのである。こうした行為は、社会的強制力を賦活し現実化する機能をもつ。
倫理的行為に、個人による合理的選択に還元できない側面があるという指摘はうなずける。しかし、公共的規範にしたがう行為を宗教的儀礼になぞらえる戦略はどういうものか。田村氏は一方で自己犠牲を自己疎外と類似した概念であるとする。であれば、疎外された形態を所与として受け取るのではなく、疎外がいかなる人間的事実から生ずるのかをこそ明らかにするべきではないか。
個人の選択に還元できない公共的規範にしたがう行為が、社会的力を現実化するという事態は、確かに存在するが、それと、合理的選択のパラダイムをなす行為との距離は、実はそれほど遠くないのでないか、というのが私の予想である。というのも、私的価値基準から公共的規範への通路の一つの有力な候補である、合意、約束、契約といったもののうちに、すでにそうした事態が生じていると思われるからである。
こうした事態への注目は、たとえばヒュームの約束論のうちに見て取ることができる。ヒュームは、約束による拘束が、「自然な動機」から生ずることを再三否定する。これは、約束による拘束というような事態が、単なる個人の合理的決定からは生じ得ないということの指摘に他なるまい。この点でヒュームは、約束をtransubstantiationのような宗教的儀礼になぞらえさえする。しかし一方でヒュームは約束と宗教的儀礼の差異を銘記してもいる。そのポイントは2つあり、一つは約束があくまでも現世の利益に基づく行為であること、そしてもう一つは、儀礼という場面が、それ自体慣習的規約によって日常生活から画然と区別されているのに対して、約束の行いうる文脈は、継ぎ目のないしかたで日常生活に埋め込まれており、ある発話が約束を構成するか否かを、慣習的規約によって決定することはできないということであると、私は理解する。要するに、約束という行為は、行為履行の意志を公的に表明することによって、私の行為を社会的強制力の支配下におくという意味で、自己の行為の決定権を社会へと譲渡し、田村氏流にいえば自己を二重化する行為であるが、にもかかわらず、その根源はあくまで現世的な自己利益の実現という文脈の中にあるのである。
こうした約束の機能を日常生活の文脈から切り離す規約化の作用は、法律をはじめとする世俗的な制度と、宗教的な儀礼との両方のかたちをとって進行する。こうした制度や儀礼を与えられたものとして、そこから日常生活の文脈を見返ることよりも、制度や儀礼が儀礼の根源が日常生活にこそあるのだということを明らかにすることの方が、哲学者の仕事なのではなかろうか。
世界的に有名なシンガー(以下敬称略)もさることながら、一部で有名なホームページを制作している研究室関係の人々が一堂に会しているのを目撃し、「惑星直列みたい」(古いね)と思う。
シンガーの理論的立場は、「選好功利主義」と呼ばれる。ごく大まかにいうと、道徳的な決定は、究極的に、人々の選好、たとえば、A, Bという可能な選択肢のうち、いずれをより望ましいと考えるかということに基づいてなされるという考え方である。こういう考え方をとる場合、一つの問題は、現実の人々が不当な選好、たとえば他者の苦しみや差別を望ましいとする選好をもっている場合、それに基づく決定が道徳的であるといえるかということである。この問題に対するシンガーの回答は、不当な選好は固定したものではなく、あるいは教育によって、あるいは他の選好との整合性を考慮することによって、変わって行くであろうというものであった。不適切な選好は時間が経つにつれて淘汰されるというこの考え方は、生物学における自然選択の理論を思い起こさせる。生物の場合、適応しているかどうかはあくまでその生物のおかれた局所的な条件によって決まる。適応における成功という点では、人間の観点からみて俗に「高等」と言われる生物も「下等」と言われる生物も変わりがない。では、われわれ(選好の適切さ、不適切さについてウンヌンしている哲学者)の観点からみて不適切と思われる選好も、それをもつ人々が属する社会の特殊な条件によって、淘汰されずに生き残る可能性があるのではないか。しかし、そうした選好が強固に生き残った場合でも、その生き残りという事実は、その選好を道徳的に是認する理由にはならないのではないだろうか。
また、シンガーは、人間以外の動物も快と苦を感じることができ、それゆえに選好をもつから、道徳的配慮の対象とすべきであると主張する。すると、道徳的配慮の対象となるのは、生き物のうちでも、人間に似た神経組織をもち、人間と同じように快と苦の意識を持つことができると想定される脊椎動物ということになる。しかし、生き物に対する扱いが、不当で残虐であるとされ、道徳的に非難されるべきなのは、その生き物が快苦の意識を持つ場合だけなのであろうか。いわゆる「下等」動物や、場合によっては植物に対してさえ、ある種の扱いは不当で残虐といわれるのではないか。(蜘蛛を踏みつけるのを思いとどまった盗人の例を考えよ。)
久しぶりの「雑記」であるが、いささかまとまりを欠く。妄言を謝すともに、愛撫と凶器攻撃のメールなどを頂戴したいところである。
今朝、自宅近くの疎水縁を歩いていて、一見でっかいウ○コと思われる物体を目撃した。近づいてよく見ると、昔の極地探検家がはめていたような茶色い革の手袋であった。しかし、この暑いのにこんなものをはめて歩いている奴の方が、道ばたで○ンコする奴よりよほど不思議である。
コンピュータを活用した「実験数学」の展開(セル・オートマトンとかライフゲームとかそういうやつ)、複雑なものを複雑なものとして見、単純なものへの還元を志向しない現象論などが、「複雑系」研究の特徴のうちにあげられた。これを聞いて、私は勝手につぎのようなことを考えた。
単純な原理や法則への還元を求めないのも、現象論の一つのあり方だが、多様な現象の単純な法則による説明を求めたとしても、そこにもう一つの意味での現象論の成り立つ余地があろう。というのは、現象を説明する法則が得られたとしても、その法則自体の根拠が、必然的なものとして知られるかどうかという問題があるのである。経験的に見いだされる規則性が、何らかの必然的な究極的原理によってさらに根拠づけられるべきか否か。この問いに対する否定的回答を明確に提出したところに、ヒュームの「実験的方法を精神の諸問題に適用する試み」(『人間本性論』の副題)の画期的な意義があった。そしてやはりこれを、一つの現象論的態度と呼ぶことができるであろう。
さらにもう一つ、理論的対象の存在の問題にかんする、科学的実在論に対立する立場を現象論と呼ぶことも考えられる。科学的実在論にかんする議論が盛んであるのと比べると、法則の必然的根拠の問題は、あまり最近議論されるのを聞いたことがない。自然法則の必然性の根拠などを求めるのは、もはや歴史に属するだけの、形而上学的問題なのであろうか。するとこの点では、ヒュームの見解が、一般的なコンセンサスになっていると見ていいのだろうか。
だとすれば、それはそれで結構な話だが、すくなくとも近世においては大問題であったはずの自然法則の必然性の問題が忘れられるのは一方で寂しいことでもある。ドイツ観念論をやっている人たちあたりに、もう一頑張りしてほしいところだ。
『知識という環境』の執筆にも加わっている、柴田正良氏(金沢大学)、戸田山和久氏(名古屋大学)、横山輝雄氏(南山大学)らの肝煎りにより、3月8日、南山大学で、フォーラム「相対主義の再検討」が開かれた。このフォーラムが開かれる直接のきっかけは、前年の中部哲学会での金子善彦氏(南山大学)の発表につづく討論ということだ。それで、このフォーラムでも、金子氏が提題者として参加。もう一人の提題者として入不二基義氏(山口大学)、コメンテーターとして、美濃正氏(大阪市立大学)が加わった。
「相対主義は自己論駁的か?」という金子氏の問いから、議論は始まる。つまり、相対主義は、自らの主張の正しさ自身が相対的であると主張せざるを得ず、その結果、自家撞着に陥るのか?ということである。古代哲学を研究する金子氏の目論見は、本家絶対主義者のプラトンが『テアイテトス』で示した元祖相対主義者のプロタゴラスに対する批判を、相対主義が自己論駁的であることを示す整合的な議論として再構成することである。
これに対し、入不二氏はちょっと変わった切り口から相対主義の哲学的意義を考えようとする。入不二氏によれば、相対主義のナイーヴな形態は一種の自己論駁によって瓦解し、より洗練された形態の相対主義にとって代わられる。しかし、洗練された形態の相対主義も、困難をふくんでおり、相対主義としては、結局維持され得ない。では結局、相対主義は跡形もなく瓦解して、絶対主義者が勝ち誇るのかというと、そうではない。相対主義が、そのものとしては溶解する過程で否定されるのは、あるものが「枠組み」に相対的であるといわれる場合の、「枠組み」という考え方そのものである。複数の、異なった枠組みが存在するという考え方そのものが不整合なのだ。複数の枠組みが存在し得ないということは、現在の私たちのものの見方が唯一可能なものであると、ある意味で言い換えられる。しかし、それは相対主義を考察する以前の、ナイーヴな絶対主義の立場と同じものではない。私たちのものの見方は、他のものの見方の可能性によって限界づけられるのでなく、外部をもたない。しかし、それは、他の可能なあり方との比較によって選択されたのでもない以上、それがそうであるということは、それが現にそうであるという以上の根拠をもたない、偶然的なものなのである。
美濃氏は、相対主義の哲学的意義について、入不二氏とは異なった見解を示す。相対主義に関する哲学的議論が実りあるかたちで行われるためには、相対主義の様々な形態が簡単に溶解してしまってはむしろ困るのである。そこで、美濃氏は、金子氏や入不二氏が問題にするような、全面的な相対主義よりも、弱められた、部分的な相対主義が、それ自体としては整合的なかたちで存立する可能性を提唱する。
私としては、三氏の議論に対して、つぎのような感想を持った。哲学的問題を考察する際に、当初出発点になった問いが途中で変容して、別の問題になってしまうということは、実際にはよくある。しかし、そのような変容自体に、積極的な意義を見出すかどうかについては、哲学者たちの態度は異なる。入不二氏は、そのような問いの変容を楽しんでいる部類の哲学者に属する。これに対し、美濃氏は、そのように問いが変容するときの議論の進行に疑いをもち、そのような変容を容易に許さないような、問いの明確な定式化がなされたときに初めて、実りある議論が可能であると考える部類の哲学者に属する。金子氏のように、歴史上の著作を解釈するときに、テクストの理解と現代哲学の問題とを、どのようなかたちで、どの程度結びつけることが許されるのか。その問題も、たとえば「相対主義」のような一般的な呼び名をもつ哲学的議論のヴァリエーションについて、それを根底においては同一の問題と見なし、一つの流れの中でとらえようとする戦略と、一つ一つのバリエーションを明確に区分して、別々の問題として限定されたかたちで取り扱う戦略と、どちらを採用するかにかかわる。ついでに余計なことをいうと、プラトンとわれわれが同じ哲学的問題を共有しているといえるのは、いかなる意味においてなのか、ということも、広い意味での相対主義にかかわる問題であり、現実の哲学研究者にとってはより実質的な問題なのではないだろうか。
・「です」「ます」調は廃止することにしたのだが、今までの分を全部書き直すのはめんどうなので、新しい分から順次「だ」「である」調で行くことにする。
デカルトの循環というのは、「私が明晰判明に理解することはすべて真である」という原則と、「すべての完全性を備えた神が存在し、私が明晰判明に理解することがすべて真であることを保証する」という原則の関係のこと。第一の原則が正しいことは、第二の原則によって、神の存在に依存するが、神の存在を証明するためには、何が真なる知識であるかという基準として、第一の原則が必要である。第一の原則が正しいためには、第二の原則が必要で、第二の原則が知られるためには、第一の原則が必要だというのは、つまりはどうどうめぐり、循環であるというわけです。
パリ-ソルボンヌ大学のジャン−マリ・ベイサード氏が夫妻で来日し(ご令室のミシェル・ベイサードさんもデカルト研究者です)、関西でもいくつかの講演会が行われました。私は1月27日に大阪で行われた講演会に参加することができました。その講演会の主題が、この「デカルトの循環」であったわけです。
ベイサード氏は、本来明晰判明に知られるはずの論証的知識に懐疑を向けるための「欺く神」の想定が、「神は欺くものでない」という命題に伴う強い確信(persuasion)によって覆され、懐疑理由として無効となるためことによって、循環は解かれると論じられました。(いささか乱暴な要約ですが。)
しかし、懐疑理由を退けることが、命題に伴う確信という心理的なメカニズムのみによるのであれば、その結果確立されるのが、単に本能的な信念ではなく、知識であるということは、いかにして保証されるのでしょうか。私が理解した限りでは、氏の「解決」は、たとえばヒューム流の懐疑的な自然主義を退けて、知識の確実な基礎づけを確保するのに十分ではないと思われます。
日本科学哲学会ワークショップ「ヒュームと心の哲学」(プログラムの詳細はこちら)が香川大学において行われ、私も提題者の一人として参加しました。オーガナイザや他の提題者はじめ、参加されたみなさんには、私の拙い話におつきあいいただいたことを感謝申し上げます。
しかし、時間の都合もあり、本来討論の主題となるべきだった問題で、触れられずにしまったことも多いと思われます。これについては、科学哲学会のメーリングリスト等を通じて、議論を提起して行きたいと考えています。
関連の文書はこちらです。事前配布資料当日読まれた原稿11月19日づけ日本科学哲学会メーリングリスト宛書簡
稲盛財団が運営している「京都賞」(精神科学・表現芸術部門)の受賞を記念して行われたクワインの哲学に関するワークショップ「言語・ホーリズム・自然主義」。内容的には充実していたのですが、学部の学生さんや大学関係以外の参加者にとってはちょっと???だったようです。クワインの顔を見るだけで満足したっていうわけでもないだろうけど、途中で帰っちゃった人も多かったみたいですね。
クワインに関するホームページはこちら。(クワインの子息のダグラス・ボイントン・クワイン博士によるものです。)

 

戻る

セントラルファイナンスのサイトです。

セントラルファイナンスのサイトです。