セントラルファイナンスのサイトです。
減らせ 新聞 完済 バック しまえ ショッピング 銘柄 ござい 不可避 けれど ハワイ 人物 頼ま による 持ち 財務 有料 数字 破産 怖い 本田 カ月 メディア 簡単 偉い キャッシング 通じ 財務 会社 レンタル

異端とは?/ セントラルファイナンス

[ 201] ブログ異端派 BlogHeterodox [絵文録ことのは]2004/06/28
[引用サイト]  http://kotonoha.main.jp/2004/06/28blog-heterodox.html

一見なるほどというような内容になっているようなのだが、実は私はこのすべての裏返しを言いたくてたまらなくなるのだ。そこで、「ブログ正統派」に対して「ブログ異端派」を提言したい。つーかバナーとか作る予定はありません(笑)
更新はネタがあるとき、書きたいことがあるときだけでOK。飽きたら放置しよう。気が向いたらまた復活しよう。
単なる日記サイトでもかまわない。もちろん、訪問者を意識したブログならば多くの人に受け入れられるだろうけれど。
誹謗中傷は法的にまずいが、悪いと思ったものを非難するのは言論の自由。最後まで責任を取る覚悟があるなら、非難・批判は利益を生む。
陰でこそこそウォッチしながら「迷惑をかけない」などと抜かすくらいなら、正々堂々と相手のサイトと渡り合えばいい。気に入らなければ文句を書いてトラックバックすればいい。ただし、そこでの出来事にはすべて自分が責任を負え(サイト閉鎖以外の手段で)。
jackalさんは「ブログはかくあるべし」という考えがあるのだろう(「最低限のブログスタイル」という表現にそれが表れている)。しかし、私は『ウェブログ超入門』でも書いたとおり、あるいは「ウェブログを始めるな!」記事で書いたとおり、ウェブログ/ブログという「スタイル」に縛られすぎるのは意味がない、という考え方だ。
つまり、自分の表現したいことがあるならそれをそのまま書けばいいんであって、それを無理やりウェブログスタイルに押し込める必要はない。あるいは、ウェブログという形を作るために記事を書く、というのは本末転倒ではないか、ということだ。
また、「もめごとを起こさない」というのは無難な小市民的生き方でいいかもしれないが、言うべきことは言えばいいじゃないか、という考え方があってもいいだろう。もちろん、そこで「議論の仕方」や「言葉の選び方」はありえるし、下手な喧嘩を売ったらそいつがアホやと思われるだけである。その辺も含めて「自己責任」というか「自業自得」を自覚した上で、他のサイトに喧嘩を売ろうが、勝手にやればいいのである。まあ2ちゃんねるネットウォッチ板的なバカどもは絶滅してほしいと心の底から思うのだが、言い方を変えれば奴らは「ネット珍走団」と呼ばれるような行為を自ら取ることによって自らの品性を落としているわけで、それはそれで自業自得ということになろう。
jackalさんの提言に戻ると、「善良なサイト運営者として人気ブログを運営するには」という趣旨であれば、そうでしょうね、という部分も多い。しかし、それは必要条件でもなければ十分条件でもない。コメント・トラックバックも、オープンな姿勢を示すためには開いておいた方がいいというのは確かだが、何のために閉じることが可能になっているのか、ということを考える必要がある。
たとえば、多くのタレント/アイドル系ブログではコメントは不可、トラックバックはOKというのが定番スタイルだ。また、寄せられたコメントやトラックバックに返答するわけでもない。これは「正統派ブログ」ではないのだろうか? いや、日記みたいなことを書いているのも多いので、(他人の誹謗中傷をしないとか迷惑をかけないとかいう道徳的条件を除いては)まるで正統派じゃないということになる。
しかし、アイドルの場合は下手にコメントを開いていたら大変なことになるのはわかっている。これこそ適切なコントロールであろう。
世の中には、わざと嫌がらせのコメントを書いておいて、それが削除されると「都合の悪い投稿を削除する」などと騒ぎ立てるバカも数多くいる。場合によっては、それ以上コメントを書かせないことが必要になることもあるだろう。コメント/トラックバックの適切なコントロールは必要なことなのだ。
というと「トラックバックやコメントがなければブログじゃない」という人がいるかもしれないが、そもそもブログにはどちらもついていなかった。9・11のときにウォーブログが話題になったわけだが、そのとき主流のBlogger.comにはどちらもついていない。トラックバック機能が初めて世の中に登場したのは2002年8月で、まだ2年経っていない「新参者」なのだ。それ以前から運営されてきた多くのブログは、コメントもトラックバックもない状態で、立派なブログだったのである(以上は英米系のことを想定して述べているが、私の定義では、連邦やちゆ12歳や「あ!ネット」やウェブ日記もすべて日本のウェブログである)。
レベッカ・ブラッドのような大御所ブロガーは、他のサイトに言及してコメントするタイプのブログを「フィルター」と呼んで正統派と考え、日記は「ジャーナル」と呼んで一段劣るものとしている(かなりおおざっぱなまとめ)。しかし、ジャーナルでもフィルターでも、何でもいいじゃないか、という考え方の人も多い。
私の好きなブログとして、たとえば「食べたものを淡々と記録するよ」というのがあるが、これは究極のジャーナル型ブログだ。今日は○○を食べました、という写真しかないのだから、jackalさんの言葉を借りれば「自分だけの記録」にほかならない。しかし、それでも十分に成り立っているわけである。
もちろん、来訪者がほしいなら、来訪者を想定した記事を書くべきだろうし、どのように書いたら効果的かという話はある(その辺は『ウェブログ超入門!』でも書いた)。しかし、それは「正統派ウェブログ」か否かではなく、「技巧派ウェブログ」か「稚拙/未熟なウェブログ」かの違いということになるだろう。
まあ私自身が「他人に迷惑をかけるか否か」を行動原理にすることを唾棄しているという一面もあるので、こういう書き方をされると脊髄反射的に拒絶反応が起こり、サブイボが立ちまくるわけだが(笑――というわけで以下は論理ではなく感情論)、少なくとも日本人は遠慮しすぎ、逆に遠慮しない人は遠慮しなさすぎ(笑)というのが私の印象である。
他人に迷惑をかけない、というのは、単に「人間関係を無難にやりすごす」ための消極的対応(大人の対応、とも言うな)にすぎない。それは波風を立てないようにする一種の「オトナの知恵」なのかもしれないが、問題は解決されないことが多いように思う(見て見ぬふりの「儀礼的無関心」は都会人のチエではあるが、それは単なる問題回避の行動でもある)。
はてなの近藤さんは、キーワードなどで議論が起こることについて、肯定的だ。もめごとが起こったとしても、そこできちんと話し合えばいいじゃないですか、という考えの持ち主である(詳細は近刊『はてなの本』翔泳社の近藤さんロングインタビューにて)。まあその話し合いの方法が下手くそというのが日本人だったりするわけだけど、議論そのものが悪いわけではない。むしろ、ブログというのはそういう議論を進めるためのシステムではないのだろうか。
迷惑というのは非常に幅が広い言葉である。人によっては、こうやって反論を書くことも「迷惑」という人がいるだろう(jackalさんは違うと思うが)。うちのサイトでは悪意がなくても2ちゃんねる的表現が一番迷惑だ(笑)。「ますた」とか「でつ」とかの幼稚な言葉づかいは、見た瞬間に脊髄反射で削除したくなるからね。つーか、こういう表現する奴はネットから消えてください、迷惑だから――とか言い出すと変でしょ? だから、人の迷惑とかそういうのは訴求力を持たない。
さらにいえば、暴走族の連中は、人に迷惑をかけるとわかっているからこそ、ストレスを発散できているのだ。ネット珍走団の連中に「人に迷惑をかけるな」というのは、火に油を注ぐようなものである。
jackalさんが「正統派」の表現をやめたというところまで発展したのは私の本意ではないですが、逆に言えば後から変更する自由もあるわけで、それはそれでいいと思います。以下、ちょっと面白いと思った議論など。

 

戻る

セントラルファイナンスのサイトです。

セントラルファイナンスのサイトです。