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かたちとは?/ ディック

[ 425] しあわせのかたち
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/

この夏に開催したいと言っていたのですが、公私ともに忙しいので大規模なものを考えているならば、ほかの人に頼んでほしい、誰もいなければまた連絡してくれ、と言ってやんわり断わりました。
久しぶりに会う級(旧)友たちは、驚くほど変わっていない……と思うことが多々あります。多少ギクシャクしても、少し話せば元通り。卒業後十数年たち、生活環境も考え方も(時には容姿も)当時とはまったく違うはずなのに、会えば「あの頃」のままのように感じ、話してみるとやはり「変わってないなぁ〜」などと思ってしまう次第。
また、そうした会話をしばらく続けていくと、やがて普段会社や家庭や現在の友人たちと喋っている「いまの自分」とはまた違った側面、「あの頃の自分」に戻っていくような感覚を覚えることも、よくあります。
かつてヘーゲルは「自分の生きる共同体に背を向けて、社会よりも自分を見つけようとする人間は愚かである。人間は人間関係に位置づけられて、初めて自分を発見する」と書いておりました。関係性から切り離された「自己」など、どこにも存在しません。存在するかもしれませんが、それは「自分にしか見えない幽霊」と同じで、誰にも確認できないものです。
親元を離れ、結婚し子供ができ社会的立場も大きく変わり、食べるものも服装も言葉遣いも違う旧友たちは、個々人単体でみればもはや「別人」といっても過言ではないほどの変化を遂げているはずです(国籍まで変わったヤツもいますし、少なくとも彼を構成する分子はそっくり入れ替わっていますww)。
けれど私と彼の「人間関係」は変わっていません。会っていない期間、「人間関係」は凍結され、当時のままで保持され、久しぶりに出会えばそれが解凍するのですね。
むろん、「あの頃の私」などというのも幻想です。どこにも居ない(居なかった)「想像された主体」でしかありません。しかし、旧友と対面し、その瞳のなかに映る姿を見返すときに、「私」は「わたしの欠片」を見ることができるのです。
もっとも活字離れしている時代であろうと、もっとも人々が活字に親しんでいる時代であろうと、(イヤな表現だが)いわゆる「知的エリート」と云いうるもの、真の「インテリゲンツィア」というものの人口などは、数千人から、よくて数万人でいいところなのである。大学教育がいかに普及しようと、「よかれあしかれ人類に対して指導的な立場」をとりうる人間のパーセンテージは決まっており、大多数の人間にとっては世界苦(ヴェルトシュメルツ)よりは家のローンがはるかに身近で重大な問題なのだ。「人類の指導的五パーセント」とコリン・ウィルソンは云うが、本来この割合は基本的にかわるものではなく、それゆえ、実際には、文学が衰退し、小説ジャンルが沈滞しているわけではないのだと私は思う。ただ、人口が飛躍的に増大し、かつマスコミが異常に発達をとげて、すべての面で注目され、話題にのぼることが多くなったために、文学が相対的に卑小に見えてきたのである。変わったのはわれわれの方なのだーーわれわれが、性急になり、途方もないことを期待するようになり、教養主義の残滓とマスコミ的基準を混同して、正しくものごとを判断できなくなっているにすぎないのである。哲学者は昔から変人奇人のたぐいだったし、「文学などというもの」は、大体が、それほど売れるものでも、有力な新人、文学史上の傑作が毎年のように輩出するものでもありはしなかったのだ。
まず(人類の指導的立場の人間は)「五パーセント」というのは多すぎるのではないか。現在地球上に3億人(60億人の5パーセント)も「指導的立場」の人間がいるとは思えない。感覚的な話で恐縮だが、1パーセントでも多い気がする。
また、「指導的人間」と「インテリゲンツィア」を混同するのはいささか乱暴な気がする。上記で取りざたされている文学的な人間が、人類の指導者たりえたことなどないのではないか。
哲学者、思想家で、その著作が政治的、人類学的、経済的に、一定数以上に対して指導的役割を果たした者としてパッと思い浮かんだのはデカルト、マルクス、ハイデガー(ヒトラー)あたりだが(日本では福沢諭吉かな)、いずれも「インテリ」というにははばかられる。
それは文学が常に、政治的立場などというものを必要としてこなかったからではないか*1。それと同じように、「インテリゲンツィア」なるものがもしも「指導的立場」などというものを欲するとすれば、それは「知恵」の敗北だと私は思う。
くだらない。あまりにくだらないし、それゆえむかっ腹が収まる気配がないのでブログに書いて分節化することにした(書くことで加速するかもしれんが)。
なんだ何が起こったまた青春かよ(今回はまた別の人だが)、と若干疲れた声で「どうしました?」と聞いてみると、その子、本日年上の同僚(妻子あるオッサン)から飲みに誘われたそうだ。
「2人で行こう」と誘われたそうだが、その子は身の危険を感じて後輩男子を同席させることを提案。結果3人で飲みに行ったそうだが、店を出た帰り道にうっかり2人きりになり、抱き締めてキスされたという。
「いま会議で人員整理の話が出ていて、Aちゃん(その契約社員の子)の名前も挙がっている。でも俺はAちゃんの味方だからね。残しましょうって言うからね」
「ねえショータさん、わたしが会社に残るためにはこういうセクハラに耐えなきゃいけないんですか。これからエスカレートしていったらどうすればいいんでしょう」
なら私がそいつを告発する。人員整理の話なんて出ていないんだ。あのクソジジイは人間として一番汚い方法で貴方にハラスメントをしやがったんだ。
「やめてください」と言う。「お願いだからやめてください」と。「会社にいられなくなります。整理の話が本当ではない、と聞けただけでわたしは充分です」。
もし告発したことで貴方が会社にいられなくなるんだったら、それは会社のほうがおかしい。そんな会社は社会的に罰を受けるべきだ。そうでないと会社もそのクソオヤジも増長するでしょう!
「いいんです。本当にもういいんです。わたしも油断していたところがあったし……次からは気をつけます。大丈夫。もう大丈夫ですから」
私の所属する会社は、契約社員の女の子にこんなことを言わせてしまうほど腐っているのか(書いてて泣けてきた)。
「今日わたしが話したことは絶対に口外しないでください。お願いしますお願いします。わたし、話したことで少しスッキリしました。今度あの人に誘われたらキッパリ断わりますし、訴えますよ、と言うことにします。だから大丈夫です」
すまない。本当に面目ない。私はそのクソジジイの同僚として、同じ会社の正社員として、そして男として、貴方にどう謝っていいのかわからない。*1
「大丈夫です。会社の男性が全員あんなふうだとは思っていませんし。今日は本当にありがとうございました。変な話しちゃってすいません」
彼女は傷ついている。明らかに傷ついている。その傷と比べると本当に申し訳ないほどに矮小でつまらないことだが、私の(自分の職種と職場に対して持っていた)ある種のプライドまでオマケで傷ついた。
私がネット上でフェミニストたちを相手にやれブレンダ少年がどうだとか、ジェンダーもセックスも共犯関係にある構築概念だとか言っているあいだに、そこらじゅうでこんなわかりやすくてくだらないセクハラが横行しているのが現実ってヤツなのかもしれない。
(追記)先ほど読み返してみたらやっぱり怒りが増してきた。いい大人である彼女が泣くほど傷ついたのは、クソジジイから単に性欲対象として見られたからではない。彼女がこれまで為してきた社会人としての仕事を取り引き材料として、(自分の安い性欲を満たすためだけに)身体を売り渡せと宣告されたことだ。それも曲がりなりにもわずかであれ、自身が所属する会社の人事権を持つ人間に!
*1:恥ずかしい話だが、以前社内で似たような話に遭遇したことはあった。あったけれどもその時はまだ、女性サイドにもう少し「計算」と「落ち度」があった。少なくとも今回のようにわかりやすいセクハラではなかった(少し掘り下げれば同じじゃないか、それは流したんだろ? ならアンタも同罪だ、と言われればまったく返す言葉もないが)
そう思うキッカケは、相手の知識量とか読書量とか論理展開力とか、発想力とか文章表現力とか、ましてや学歴や偏差値なんかではなくて*1、ある種の「修羅場をとおったあとのホンワカさを纏っている」としか表現できないようなエントリ群を読んだときですな。
もし仮に上記ご両名が当ブログのコメ欄にいらっしゃって(それがどんな話題であれ)「こりゃショータ! くだらないこと書いてるんじゃない! 謝りなさい!!」とか書いたとすると、私、アーもウーもなくモニタの前で背筋がピンと伸びて「ご、ごめんなさい」と打ち込んじゃうんですよ。たぶん。
これ、小生にとって、(それを認識することができない、という意味で)正しい用法での「トラウマ」に関係があったりするんじゃないかな、なんて思ったりするんですが、だとしたら考えるだけ無駄だよなあ、とも思います。
なんというか、ご両名のあの「ホンワカ具合」に関係があるような気もしているんですが(たぶんご両名ともに「ホンワカ呼ばわり」は納得がいかないと思いますがw)、どうなんでしょうね。非常に論理的ではないのですが、「何か」が前景化している気がするんですな。「北風はどう頑張っても太陽に敵わない」みたいなモノが。月並みですが、母性ってヤツでしょうか? それとも小生にとっての「知っていると想定された主体」? う〜ん、どちらもしっくりこない。
「自分には無条件で敵わないと思える生身のブロガーが少なくともひとりはいて、エントリをアップするとき、その人の視線を意識してしまう」
「そんな人はいねーし、いらん」と思う方のほうが多いとは思うのですが、ためしにひとり設定してみてはいかがでしょうか。姐さんライフハック。
*1:いや小生意外と小心者で権威主義的なトコがあるので、そういうので「敵わないだろうなあ」と思っちゃうこともあったりするんですが、そういう場合は「姐さん! 参考にさせてもらってます!」とは思わない。どっちかっていうと「先生」にしちゃう感じかな
かなり前の話。今よりも僕はずっとずっと言い訳をするのが好きで、理屈を説明するのが好きだったんです。
男友達と飲みながら「ラカンが何を書いてるのかわからない。後期ウィトゲンシュタインもチンプンカンプンだ」と文句言ってたのです。
したらまた、この友達が「じゃあ、わかった」と言うのです。「今から紀伊国屋の現代思想コーナー行って原書買ってこようぜ」と。
でも友達は、東口に抜ける地下道を指さして「あそこ通って、5階の右奥に行けばラカンだってウィトゲンシュタインだっていっぱい売ってる」と言い、店を出ようとします。
友達は「どうしてもわかんなかったら速攻で古本屋に売ればいいんだよ」と言ってましたが、オレが動こうとしないので行くのをあきらめました。
「じゃあ、オレが今から新宮一成や永井均の入門書を貸してやるから、それ読んでブログ書けばいいじゃん?そんで内田樹とか岸田秀とか上野千鶴子disればブクマ増えて注目エントリ入りだぜ?」
「それは…、だけど、ほら、村長もこの前言ってたじゃん。ブロガーは新書一冊読むのも負担だと思うから、現代思想系のネタはウケないって……」
「あ、そうだったね。…でもオレ、愚民だし、愚民は無知でも構わないと思うし。そこまでして賢く見られたいって思ってるわけでもないし…」
どうせ「わかりやすいラカンという表現自体おかしいなんていうのは、とりあえずラカン一冊でも読んでから言うべきだろ」と言えば、「そもそも1p目から何書いてあるのかわからない思想書に意味なんてあるのかよ」って言うし、
現代思想系のエントリでブクマが集まっているのを見せれば「ああいう安直な言い換えによるわかりやすさこそ、思想家が忌避すべきカタログ化なんじゃないか...」とか言うだろうし、
現代思想勉強したからって賢く見られるわけじゃない、けど莫迦には見られないだろって言えば、「いや、莫迦には見られないかもしれないけど、変態に見られる恐れが大だし」って何かにつけて言い訳するんだろ?
つーか、できない理由並べて、今の自分を否定させずに、わかってもらおうとするその魂胆がだせぇ、と。
オレにはオレの事情があるんだ、時代はニューアカブームじゃないんだ、しょうがねぇじゃんかよって。浅田彰の『逃走論ースキゾ・キッズの冒険』読みながら(笑)

 

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