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メルヴィルとは?/ ディック

[ 456] 松岡正剛の千夜千冊『白鯨』ハーマン・メルヴィル
[引用サイト]  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0300.html

友人の安田毅彦はエイハブ船長に入っていったようだ。「松岡はスピリットが好きなんだろう」と英語の得意な安田はそう言った。そして加えた、「おれはソウルが好きなんだ」。これは痛かった。しかし、エイハブに入るとは、そのソウル(魂)を悪の起源にまでさかのぼり、そこからまさに銛でモービィ・ディックを撃つように、現実の闘争に逆上してこなくてはならない。そのうえでエイハブをイシュメールから眺めなおすということになる。
そんな強靭な読み方が安田にどうしてできるのだろうか、と驚いた。しかし安田は『カラマーゾフの兄弟』においてすら大審問官の側に立てた男だったから、あるいはエイハブの魂が痛いほどよくわかるのかもしれなかった。
エイハブは獰猛な白鯨と闘った。白鯨が神なのであって、エイハブが神なのではない。案の定、そのエイハブのモデルは『列王記』の悪王アハブにある。そのエイハブの壮絶な闘いの一部始終を見た青年は、その名をイシュメールと名のっている。メルヴィルがこの物語に秘めたかったすべての鍵は、このイシュメールが内面で握っている。イシュメールとは『創世記』のイシュマエルが化身したものだった。
ヘブライの祖始アブラハムと正妻のあいだには子が産まれなかった。が、側室には男児が生まれた。それがイシュマエルだった。母と子は追放され、パレスチナの砂漠を彷徨しつづける。イシュマエルには追放された理由を背負うという宿命が落ちている。ユダヤ・キリスト教における逃亡のニヒリズムは、こうして歴史を貫通していった。
そういうイシュメールにぼくは加担したのだが、安田は、そういう加担は『白鯨』の読み方じゃないんだと言ったのだった。
この神話は邪悪を主題にした。「悪」である。邪悪者は白鯨モービィ・ディックではなく、エイハブである。しかし、エイハブが邪悪者になりきれたのはモービィ・ディックが残虐に見えたからだった。この関係がちょっとでも崩れたら、『白鯨』は成り立たない。読者は異常な物語からただちにスピンアウトする。だからメルヴィルはエイハブに英雄的な叙事詩の言葉を与えつづけた。それまでアメリカ文学の歴史には英雄叙事詩の伝統がまったくなかったにもかかわらず(当時は北米インディアンの歴史はほとんど知られていなかった)、メルヴィルはシェイクスピアから借りてきたかのごとき悪王の語り口をエイハブに与えつづけた。
この徹底は、物語が異常であることを設定したからというより、メルヴィルが異常を擬装できたということなのである。そこにナサニエル・ホーソーンに継ぐアメリカ文学最大の実験者が生まれる原動力があった。
けれども、そんな原動力がどうしてメルヴィルに備わったのか、当時のぼくにはまったく見当もつかなかった。ただ夢中に読んだだけだった。
もっとも、このことを聞いて焦る必要はない。メルヴィルは「私は25歳までなんら成長しなかった」と言っているほどの遅咲きなのである。が、この言葉も額面どおりには受けとれない。この25歳での決断には壮絶なものがあったからだ。
25歳からの8年間をひたすら物語体験に打ちこんだ。この決断がメルヴィルをつくった。そこにはむろんタネがある。ただそのタネが尋常ではない。それこそがメルヴィルの原体験である。
原体験になったのは、21歳(1844)のときに大海を航海する旅立ちをしたことにある。メルヴィルは捕鯨船の水夫や海軍の水兵として3年におよぶ航海をした。荒くれ男たちと人跡未踏の海と島とを波瀾万丈に巡航するこの3年間には、“人間”というものが見せるたいていの暴力と欲望と情熱と技術とが嵐のように集中していた。尋常じゃなかった。
このときの体験は『タイピーまたはポリネシアの生活瞥見』にまとまるのだが、そのときメルヴィルは初めて“人間”になる。それが25歳なのである。それまでは“人間”じゃなかった。そして、それからが『白鯨』という8年間にわたる神話づくりになる。
メルヴィルが捕鯨船に乗っていたことが、メルヴィルの物語体験をつくった。まさにそうなのだが、そう見るのは、いかにもあたりまえすぎると思われるかもしれない。
ぼくのように少年時代に捕鯨船の記録映画を見て(小学校の校庭で揺れる銀幕に映る短編映画を見て感動してしまったのだった)、捕鯨船に憧れたような単純な者には、上の説明で何も不足はないのだが、おそらく文芸批評家や文学史としては、こんな説明は不満なことだろう。
これはぼくの批評の芸当にすぎないが、メルヴィルは体験を物語化したのではなく、物語を体験化したかったからだったという逆説だ。物語の体験化というのは、人々が旅に出ようとするときにつねに実感していることで、説明するまでもないだろう。
この逆説を敢行するためにメルヴィルがしたことは、すべて『白鯨』に執拗に書いてある。それこそが『白鯨』を読むおもしろさというもので、ようするにモービィ・ディックを神として、エイハブを悪王として、イシュメールを巡礼者として、そして船員たちをユダヤ・キリスト教史に登場するあらゆる人物としてそれぞれ彫塑していくために、メルヴィルがあらゆる読書体験を駆使してあてはめた文章の知識、いわば「文知」というものである。
この「文知」には、おびただしい鯨学も含まれる。ともかくクジラに関して、こんなに濃い「文知」につきあわされるとは、物語の読者には予想もつかないことだろう。
また海洋・気象・船舶操縦の知識も含まれる。そこはぞんぶんに博物学になっている。加えて、たいしたことはないけれど、当然のことに“人間”たちの喜怒哀楽のいっさいも含まれる。
それらの量があまりにも多いため、たいていは『白鯨』は敬遠されてきた。メルヴィルが尊敬してやまなかったホーソーンもうんざりしたようだ。
ぼくが高校時代にこれを読んだのは幸運だったのだ。若気の至りでともかく平気で読めた。けれども最初にも書いておいたように、ぼくは安田のようにはエイハブ船長の魂になれなかったのである。
最後に言っておかなければならないことがある。メルヴィルが壮絶な情熱を降り注いで「文知」のかぎりを尽くしたのは、やはりモービィ・ディックとエイハブとイシュメールの三者にうねる「永遠の父なるもの」だったろうということだ。
どちらかといえば歴史的にはゾロアスター的なるものに近い。ニーチェがツァラトゥストラと呼んだものである。その光輝神に内属する暗黒神に近い。わかりやすくいうのなら、のちにジョージ・ルーカスが『スターウォーズ』において仮設したダースベーダー的なるものだ。ルーカスがダースベーダーを仮設できたのは、ルーカスの師の神話学者ジョセフ・キャンベルのヒントに従ったまでのことだが、さすがにそのヒントが『スターウォーズ』を宇宙世紀を舞台にした神話にさせた。
しかし、実はもっと直截にいえば、『白鯨』の「永遠の父なるもの」とはデミウルゴスなのである。創造主デミウルゴスそのものなのだ。最近は建築家の磯崎新がしきりに考えこんでいるデミウルゴスである。
言いたかったことは、このことだ。第132章「交響」に、そのグノーシスの知がデミウルゴスあるいはツァラトゥストラを掌握する瞬間が綴られている。今日のぼくには、そこを紹介する気力がもはや失せているが(なにしろぼくは安田とちがってイシュメールに逃げたのだから)、諸君のうちの誰かは、少なくとも気力充実の青年たちは、この第132章だけでも取り組むべきである。そこに、この大作で初めてモービィ・ディックが姿を見せるのだ。

 

[ 457] 促叩促谷促担促贈促谷とは - はてなダイアリー
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/keyword/\a\e\o\£\e?kid=67346

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1819年8月1日、ニューヨークの裕福な名家に生まれる。11歳の時に貿易商の父の店が傾き、母の実家を頼ってニューヨークを去るも、13歳の時に多額の負債を残して父が死去、学校を辞めて働き始める。18の時には恐慌の折に兄の店が倒産、小学校の教員などになるも家計はどうしようもなく破綻しており、1841年1月3日(21歳)の時ついに捕鯨船アクシュネット号に乗り、一船員としてニューベッドフォードから航海に出る。船長の横暴に耐えかねて、一年半の航海を経て立ち寄った南太平洋マルケサス諸島にて仲間とともに脱走、人喰い人種(と当時信じられていた)タイピー族の部落に保護され三週間ほどの期間を彼らと過ごす。タイピー族の元を去った後、別の捕鯨船に乗り込みタヒチに行くが、タヒチの英国領事館に船長反逆罪で逮捕される。領事館を脱走し再び原住民の元に逃げ込む。数週間をそこで暮らした後、捕鯨船に拾われてハワイへ、ハワイで合衆国海軍の船に二等水兵として乗り込み、1844年10月(25歳)米国に帰還する。
1846年2月(26歳)、タイピー族部落で暮らした体験を元に第一作『タイピー』を出版する。大好評を博すが当時の受け取られ方は、人喰い人種の中で暮らした白人の実話、あるいは南太平洋地域の観光案内というものであった。この評判はメルヴィルの作家生活にずっとつきまとうことになる。ともかくも商業的成功をおさめたため、1847年3月(27歳)、今度はタヒチでの体験を元にして次作『オムー』出版。こちらもよく売れる。この年に結婚する。
1849年、第三作『マーディ』出版。これまでの二作と同じような調子で小説は始まるのだが、途中からうって変わっていつのまにか哲学談義のような様相を呈し始める。前二作は小説ではあるものの、当時は実話と受け止めた人もいるようにそれなりリアリスティックなつくりになっているのだが、この小説は中途からほとんどファンタジーになってしまう。前二作と同じようなものを期待していた当時の読者たちには受け入れられず大不評となる。あわててこの年の年末から翌年頭にかけて第四作『レッドバーン』第五作『ホワイト・ジャケット』を発表する。
1850年、匿名で評論「ホーソーンとその苔」を発表*1。この年に先輩作家であるナサニエル・ホーソーン(ホーソン)の知遇を得る。以降二人の交流は続く。なおバイセクシュアルであるメルヴィルは、このホーソーンに片思いをしていたようだという研究は多い。
1851年10月(32歳)、『白鯨』発表。当時の読者たちにはまったく受け入れられない。翌年には『ピエール』を出版するも、「あの『タイピー』で名を売った小説家メルヴィルは完全に駄目になってしまった」「気が狂ってしまった」というような評価を受ける。もはや長編は世間では受け入れられない作家になってしまったという本人の絶望と、周囲の勧めにより、しばらく短編小説を書き綴る。この時期に「バートルビー」「イスラエル・ポッター」「乙女の地獄」「ベニート・セレーノ」などの非常に優れた短編群が書かれている。
1856年(37歳)これら短編を一冊にまとめ『ピアザ物語』出版。翌年、久しぶりの長編『詐欺師』を発表するもまったく世に受け入れられなかった。もしこの作品が理解されなければ筆を折る、と述べていた通りこれを最後についに小説家として作品を発表するのを止めてしまう。40歳から詩作を始め、57歳の時には長編詩『クラレル』を自費出版する。これは友人に配ったりした程度で実際に書店店頭に並んだりしたわけではない。その後、イギリスなどでは細々と読まれていたものの、世間では完全に忘れられた作家となったまま暮らし、1891年9月28日、72歳という長寿で死去する。死の直前、秀作『ビリー・バッド』を書き残しており、死後に出版されることになる。
『詐欺師』以降筆を折ってしまったメルヴィルは世間では完全に忘れられた作家となってしまう。イギリスの大学教授などの読書サークルでは細々と読まれていたものの、アメリカでは何十年間も誰も知らない作家であった。それが死後31年、筆を折ってからは66年という時を経て1922年、この読書サークルの教授の一人レイモンド・ウィーヴァーによって作品が記念刊行という形で復刊される*2。これによってメルヴィルの再評価に火がつく。今日では世界を代表する大小説家の一人と数えられており、影響を与えた作家は内外に数知れない。現在のアメリカでは高校の国語の教科書などで誰しも必ず読まされる、国を代表する作家とされている。
*1:彼の尊敬する二人の作家、ホーソーンとシェイクスピアについて賛辞を贈りつつ、いろいろなことを述べている。読み物としても非常に面白い評論なのだが、二人の先輩作家に対して彼が語っていることは、どちらかと言えば、メルヴィル自身についての方がより当てはまる。ほとんど自分自身について語った評論として読めてしまう
*2:この折にメルヴィルの使用していた仕事机から『ビリー・バッド』が発掘され出版されることになる

 

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